刃渡り30cmの愛憎



 黙々と分厚いマグカップを両手で包むようにしながら珈琲を飲む彼女を見つめる。俺が手に取ったときは極々普通のサイズに思えたマグカップが、彼女の手の中にあるとやけに重そうに見えた。マスカラが均一に塗られてくるりと上を向いている睫毛は酷く重たげに影を作って、時偶彼女の先日切ったばかりだという前髪が居心地悪そうに揺れる。緩慢な動作でマグカップをテーブルに置き、今日俺の家に来てからもはや何度目か分からない回数でテーブルに置かれた携帯に視線を遣った。気付いているのだろうか、俺と視線を合わせるよりも言葉を交わすよりも多くの頻度で携帯を見つめていることを。何も知らないふりをしたまま肘をついて、いつもより暗い色の口紅の塗られた彼女の口元が開かれるのを待っていた。

「ごめんね」
「別に構わない」
「こうやってすぐ甘えちゃう」
「……いや、」

 別に構わないが、と最後まで言葉が出ることは無かった。良い、というわけでもなく、悪い、というわけでもない。頼りたい、縋りたい、と駆け込む場所が俺の家、もとい俺であることに対しての優越感はいつもある。けれど、腕時計や携帯を見て「ごめんね」と「ありがとう」の決まって二つの言葉を告げていつだって彼女は帰ってしまう。マグカップをずっと握りしめていただけで中身に殆ど口をつけていないことを表すように珈琲を半分以上残して、ここで話すことはなく、ただ手持ち無沙汰でマグカップを持っていただけということを示すように。
 もっと、例えば仕事が出来るだとか彼女に思いやりを示すだとか、俺でも敬意を払えるような男と付き合っていたらどうしていたのだろうか。
 つるんとしたダイニングテーブルの表面を俺は掌を張り付けるようにして撫でた。浮気をしているだとか約束を無かったことにされただとか、そんなことを角砂糖を投入するかのようにマグカップの中に落として、満足がいったのか溜飲が下がったのか判断はつかないけれどある程度の言葉を吐き出した後で彼女はいつも帰っていく。カップに残った真っ黒の珈琲は冷えて淹れたての時の芳しさもすっかり失われてしまっていて、それを俺は無言でシンクに流しながら、また聞けなかった言葉を一人キッチンで繰り返す。それでも好きなのか、まだ付き合うのか、シンクに流れていく珈琲を見ながら何度も何度も、一人の冷えた部屋で繰り返す。

「悲しい」
「自分から言えばいいんじゃないのか」
「嫌われちゃうかもしれない」
「振り回されすぎだろう」
「……でも」

 でも、と、だって、をこんな泣きそうな表情で使うような弱い人間ではなかった。こんな使い方をする人間ではなかった。少なくとも、俺の知っている彼女は。小さなため息が大気に溶けるようにして消えていく。
 俺の知る彼女はもっと、賢く、自分の意見を持っていて、真っ直ぐに真っ当に生きていた。果たして美化をしすぎなのかもしれないけれど、会う度に俺の知っている彼女の核みたいなものが磨り減っていっている気がする。磨り減った代わりにそこに生まれるものは何もなく、仮にあるというなら真っ黒な影なのか闇なのか、磨り減って草臥れた先にはそういう負を彷彿とさせるものものしかない。
 飲んでいるのかも分からないまま、また彼女がマグカップに口を付けた瞬間に携帯の画面が明るくなった。いくつか連続で浮かび上がる通知を見るために見たこともない速さで彼女は携帯を手に取り、何かの文字を打ち込んでいく。携帯の画面が点いた瞬間に光をすべて集めたようにぱっと明るくなった顔はまた文字を打つたびに暗く、黒くなっていく。まるで生きる力が吸い取られているみたいに。

「神戸さん、わたしちょっと戻るね」
「彼氏か」
「うん」
「何と言っている」
「ごめんねって、話しようって」

 その瞳が余りにも真っ暗で、俺は何を見つめているのか分からなくなった。彼女は今から自らの恋人へ会いに行く人間の顔をまるでしていない。髪の先も、目の奥も、指先も、足取りも、睫毛の先も、服の裾すらもそれら全てが濁った何かに縁取られている。
 俺は、いつも見逃してきた。名残惜しさの欠片もなく俺の前から去っていく彼女の重い足取りを、抜け出せない悲しみが染み込んだ目を、鞄を強く掴む指先を。何よりも真っ直ぐに背筋を伸ばしてタクシーに乗って、また俺の知らない男の所へ帰る彼女を、ただ間の抜けた顔で見送ることしか出来ない俺を。
 ごちそうさま。いつもと同じ、昔から変わらない礼儀正しさでそう言って椅子から立ち上がり鞄を掴んだ彼女の腕を引いた。片手に握られていた忌まわしき携帯を彼女の鞄に押し込んだ後、鞄を少し遠くに滑らせるように置く。

「本当に行くのか」
「行くよ」
「行きたいのか」
「い、」
「行きたいなら、行きたい顔をしろ」
「……神戸さん?」
「そんな顔をしていたら、俺は見送れない」

 掴んでいた彼女の腕の力が、足の力が一気に抜けていき、俺は急いで彼女を抱き締めた。
 自らの年齢と相対する平均身長からは些か低いという自覚はあるけれども、彼女はやけにしっくりと俺の腕の中に納まっている。小さな動物のような二人分の呼吸だけが部屋に広がっていく。
 行かないでくれ、とは、結局言えなかった。
 後ろから抱きしめるような形になっているせいで彼女の表情は窺えないけれど、小刻みに震えているのだけは分かっていた。あり得ない程子供のように小さな掌に俺の掌を重ねると指先が腕時計に触れた。あまり彼女には似合わない、豪奢で大きい腕時計の上から俺は掌を押し付ける。
 何も言わないけれど、今までの沈黙よりずっとずっと良かった。言いたい事柄はてんで言えていないけれど、言えなかったことの三割くらいは言えただろうか。

「俺が言えることではないのかもしれないが、」
「……うん」
「もう少し、ここにいてくれ」

 うん、とも、いいえ、ともつかないように首を動かした彼女は、それでもまだ動く気配がなさそうだ。
 夜の空気は先程まであんなにも固まっていたのに、今はまるでゼラチンを入れすぎたゼリーのように時偶ぐらりと震える。自分の手に触れている彼女に不釣り合いなその腕時計を、今すぐに壊してしまいたい、と思った。
 ただ、きつく抱き締めることも愛の言葉を囁くことも出来ない俺に、そんな権利はきっと永劫ないのだった。