瞬き後の5秒間



 首に巻いたマフラーを巻きなおして一息つくと、自分の吐いた白い息がマスク越しに漏れてふわりと夜の空気に溶けていった。夜のアスファルトに響く自分の靴音を聞きながら、等間隔に並んだ街灯の数をゆっくりと数える。コートのポケットに冷えた手を押し込んで、先程震えた携帯を取り出すべきかほんの少し逡巡して止めた。マフラーに入り込んだ髪の毛が首筋に触れてなんだかくすぐったい。
 等間隔の街灯の間でやけに煌々と輝く、コンビニエンスストアの仄青い光にわたしは吸い込まれるように向かった。肩に掛けた鞄に入っている仕事道具は、わたしの日常を吸い込んで朝よりもずっと重たく肩にのしかかっている。あたたかいペットボトルの紅茶でも買っていこうか、家はもうすぐだけれど、たまにはいいだろう。入り口からホットドリンクのコーナーまでわざと遠回りをするようにコンビニの中をぐるりと歩いていると、ポケットに収めた携帯がまた震えた。長めのバイブレーションが二度震えたあたりで漸くそれが通話着信であることに気付いて、ポケットから携帯を取り出す。画面の受話器マークを押して冷えきった指先ごと携帯を耳に押し付けると、電話の向こうの静寂がいやにはっきりと聞こえた。

『どこにいるんだ』
「えっと、コンビニ、家の近くの」
『何か買うのか』
「寒いからあったかいものでも、と」
『分かった、俺も行く』

 電話の向こう側の静寂が少しだけ揺らいで、神戸さんが携帯を肩で挟むようにして話しながら準備をしているのが目に浮かんだ。携帯電話越しに聞こえる神戸さんの声はいつにも増して色気を孕んで聞こえてどきどきする。この界隈のどこかにいる神戸さんの声が、見えない電波を伝って伝ってわたしの元まで飛んでくる。そう考えると、たった電話一本だけれどなんだかとてもドラマチックだ。「待っていろ」という比較的柔らかい声が聞こえて、わたしは軽率にその言葉に頷いていた。煌々と光るコンビニエンスストアの内側で、一歩一歩とこちらへ着実に向かって来てくれる彼の足取りを思いながら。通話を終えて画面を確認すると、他に入っていた通知のうちのひとつはやはり彼がわたしの家に来ているというものだった。事後報告とはいえ律儀であり、なおかつ些か心配性のきらいが彼にはあるから、きっとこの便利な店の中で欲しいものがあるわけではないのだろう。
 五分以上十分未満、遠くはないけれども近すぎることもない、自宅から絶妙な場所にあるコンビニエンスストアの店内をカゴも持たずにわたしはひとしきり店内の新商品や期間限定の飲み物を物色したあと、ファッション誌やテレビ誌の表紙を眺めて過ごした。耳を澄ませるようにして、窓ガラスに映る自分の目の前にいつか彼が映るような、足音が聞こえるような気がして。
 幾つかの漫画の背表紙とファッション誌の煽り文句を三周ほど読み直した頃に自動ドアがゆっくりと開き、相変わらず夜に馴染んだ髪の色の彼が店内を神経質そうに見回して、最後にぴたりと照準がこちらへ向いた。軽く会釈するように頭を下げてからマスクを人差し指で下ろした後に「おつかれさまです」と言って気持ち程度の微笑みを向ける。

「一応訊きますけど、欲しいものあります?」
「ない」
「はい、じゃあ買ってきます」
「ああ」

 いつぞやの張り込み捜査以来お気に召したようで、インスタント食品の並んだ棚の方へと真っ直ぐ足を運ぶ彼を横目に、わたしはレジ横のホットドリンクのひとつに手を伸ばす。あたたかいレモンティーのペットボトルをひとつとチャック袋入りのチョコレートをひとつ、小さなビニール袋に入れてもらいお釣りを受け取ると、神戸さんは当たり前のように出口に立っていた。がさがさとビニール袋を鳴らしながら財布に小銭を仕舞っていると、神戸さんが鞄をさり気なく持ってくれる。一度彼の手に食い込むように沈んだ鞄について「相変わらず重いな」と眉を寄せて呟きながら。並んでコンビニを出ると、先程までわたしたちを包んで光っていた店舗は途端によそよそしく外に向かって光るだけで、また等間隔に並んだぼんやりとした夜の道に放り出されてしまう。神戸さんが持ってくれている鞄の中に小銭とレシートを押し込んだ財布を滑り込ませるようにして落としながら視線を足元に向けると、見慣れた神戸さんの革靴がアスファルトのグレーに溶けるようにして滲んでいた。彼は道路に面した側の腕にわたしの鞄を持ち直した後、空いている手でわたしの手をそっと包む。がさりとペットボトルの入ったビニール袋が俺を忘れるなと言わんばかりに音を立てた。

「この道、暗くないか」
「うーん、まあ、」
「もっと街灯の多い道があるだろう」
「でも、一番近いので」
「変える気は無いんだな」
「まあ、たぶん」
「毎日こんな鞄を持っていたらそうなるのも分かるが、」

 平生素直な彼には珍しく言葉を選ぶような遠い言い回しは、どうやら心配をしてくれているらしかった。ぎゅっと神戸さんがわたしの手を繋ぐ手に少し力を込めたあと、指の腹で手の甲を撫でるように動かす。ささくれだとか手荒れとは全く縁がなさそうなすべらかな手だ、温かくも冷たくもない神戸さんの手を掴んで、いつもより軽い肩で夜の道を歩いている。ひとりきりのときに覚えた無意味な勇敢さはたぶん、心細さの裏返しなのだろう。街灯が比較的少なくて車通りも然程無い、いつもと同じ道だというのに今夜はやけにしんとして人気がなく、恐ろしげに見えた。たまに足に当たるペットボトルが跳ねるように動いて、ビニール袋の擦れる音が静謐を破るようにがざがさとやかましく音を立てる。

「飲まないのか」
「腕が二本しかないから大丈夫」
「離すか」
「離さない」
「そうか」

 家に帰った時にはもうぬるくなっているであろうペットボトルのレモンティーのことを一瞬だけ考えて、けれどすぐにそれは頭の端に追いやられる。「今日は何時までいられるんですか」と神戸さんに尋ねると、彼が真っ直ぐに前を見たまま、「明日は休みだ」と呟いた。わたしは、「へえ」とだけ返して、彼の手をすこしだけ強く握りしめる。なぜか心臓がいつもより鼓動を叩いて、律儀にぼんやりと光る街灯のひとつひとつがやけに眩しく感じた。
 そんな声を出されると期待してしまう。早く言ってくれればいいのに、なんて打算にまみれたもうひとりのわたしが頭の隅でそれはそれは深い溜息をつく。彼女はひどく臆病だ。わたしは石橋を叩いて渡るタイプの人間ではない。どちらかといえば、石橋を叩いて叩いて結局渡らないタイプの人間だ。だから言えない。完全に安全圏内だとわかっていても、万が一を考える。へえ、の後に続く言葉は思いつかなくて、神戸さんもなにも喋ることはなくて、けれど繋いだ手だけは離すことを知らない力強さで、なんだかひどくあべこべのように感じて滑稽でさえあった。
 勇敢でも臆病でもなく、ただ真っ直ぐにちいさなわたしの家に向かう足取りは一定のテンポを持って着実に夜を抜けていく。
 明日のことも夜明けのことも、まだなにも知らないまま、仄暗い帰り道を、心配性の神戸さんとただひたすらに歩いた。