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 彼に会うことと彼に会わないことは、同じくらいの比率で簡単だった。
 仕事と仕事の合間は確かにすべて彼でいっぱいであったはずなのに、彼の事を考えると途端に身体だとか心だとかが異常に疲弊してしまう。
 お酒を飲んでお酒に飲まれて自棄にでもなったら全部がどうでもよくなるだろうかとも思ったけれど、いつもと違う行動を取るということは彼を特別に思っていることを認めているみたいでなんとなく癪に感じてしまったから止めた。ただ日常をいつもよりも長く感じながら引き延ばされた日々を、潰したうどんやほうとうみたいだとかくだらないことを考えてだらだら消化していく。
 会うことと会わないことが同じ比重ならば、それはきっと、一番贅沢な時間であり人だったのだ。
 彼の横顔の、すっと通った鼻の形が好きだった。周りの景色なんてまるで映していない硝子玉のような薄縹色の瞳が好きだ。理知的な顔立ちを精悍なものにしている健やかな額が好きだ。
 愛とか恋とかそういうあまやかで万人に通ずる単語で表せるようなものではなく、どことなく良いな、だとか綺麗だなとかそういう曖昧で抽象的なことを考えていたら次第に呼吸をするのを忘れて、そうして、ひどく苦しくなった。
 わたしから連絡をしないだけで会わないことになるならば、彼にとってのわたしは、わたしにとっての彼よりずっとずっと軽い存在なのだろう。あまり付けないという武骨で高級そうな銀色の腕時計がいやにしっくり馴染む血管の浮いた腕が今でも鮮明に思い出せるくらいに瞼の裏に焼き付いていた。一年後には名前も思い出せないくらいの人になっていたらいい、と祈るようにわたしは味のしない引き延ばされた日々を消化する。
 会いたい、と心の中で言ってみると、本当はきちんと愛していたような気さえした。本当は愛しても恋してもいない、あってもなくてもいい、一番特別な、贅沢な味だから手放し難かっただけなのだ。喧嘩をすることも自己欲求を伝えることもできない、同じ土俵にすらいない、薄氷よりも脆く薄っぺらな間柄で。これ以上のものはないと大事に大切に両腕で抱えていたものは呆気なく朽ちていく。
 イヤホンを耳に押し込んで適当な音楽を流しながら瞬きを何度も何度もしてみるけれど、望んだ涙ひとつ零れなかった。少しずつ卵の薄皮を剥がすみたいにはやく忘れてしまいたい。瞬きの間に過る彼の横顔はまだ鮮明だ。
 「君とふたりで喧嘩したい」、流れてきた歌詞に身体の動きが一瞬止まって、音楽を止めようと携帯を開く。喧嘩がしたかった、じわりと涙が膜を張る一秒前に携帯が震えて、アプリを通して通話を求められているのだとわかった。会うことも、会わないことも、同じ重さで簡単で、迷うこともなく、ただ後悔するのだということを理解したまま、わたしは画面の受話器マークをタップする。受話口のスピーカーから流れてきた、やけに静かな場所にいるであろう彼の声がイヤホンから囁かれているみたいに響いた。

『まだ仕事か』
「いま帰るとこです」
『まだ会社の近くか』
「そうです」
『……最近、音沙汰無かっただろう』

 どこか躊躇いがちにそう言って、神戸さんは言葉を切った。忙しかったとかもう会いたくなかったとか、なんでも言えたはずなのに心臓だけやけに煩くて声はひとつも出なかった。携帯を握る手が少しだけ震えていて、誰に対することなのかわからない後ろめたさがからだじゅうに広がっている。
 言葉が出ないわたしがなにを考えているのか彼は知っているのだろうか、きっとどんなことを考えてたって彼には関係がないのだろう。今必要なのは、今から彼が紡ぎ出す言葉にわたしがなんと返すのか、そのたったひとつなのだ。

『今から会えないか』
「……」
『難しいか』
「……どこで、ですか」
『迎えに行ってもいいが』
「そっち行きますよ」

 わたしがそう告げると、神戸さんはいつもの冷淡かつ平坦な声で、中間部分の駅まで電車にて向かうわたしを彼が車で迎えに来てくれるという折衷案を出した。わたしがもっとなにか、反抗的だったり、我儘だったり、図々しかったりしていたらこうはならなかったのだろうか。わたしは電話越しの彼の声に耳を傾けているふりをしながらわたしがするべきことについて考えてみたけれども、一向に最善策は見出せなかった。外気に煽られて崩れているであろう髪を手櫛で気持ち程度に整えながら駅までの道を進んでいく。足音がいつもよりうるさく、また早いペースで響くのはきっと気のせいではないのだろう。
 会いたくない、と思いながら、会いたい、と同じ強さで、重く、痛く、苦しく考えた。
 チャットアプリの画面を開いて「お腹が空きました」と打ち込むと、「わかった」という淡白な文字がすぐに返ってくる。わたしは初めて知った自分の狡猾に呆れていた。膨れ上がった愛情に針を刺す勇気がないくせに彼の言葉を素直に聞き入れる気にもなれなくて、涙は流せないというのに、こんな気持ちになってしまうなんておかしい。
 それでも、まだ少しでも彼によく見られていたい。今更そんな矮小なことを考えて口紅をそっと塗り直しながら、今度は喧嘩でもできるだろうか、と到底できもしないことを考えた。