三行目に踞る念い



 最近、食欲を感じない。ダイエットでもしてるの?と知人にからかわれるたび誤魔化すように首を振るけれど、ダイエットという軽率な言葉で片付けられない程には頬が削げてきていることくらい自分が一番わかっていた。自分で触れてみてもあからさまになくなってきている肉と浮き上がる骨に嫌悪感すら覚えている筈なのに、食べる気力が起きずにただひたすら白湯ばかりを飲んでいる。休日であるこの日も、ただどんどんと綺麗という言葉からかけ離れていく部屋の中で何度も見ている筈のドラマをBGMのように再生していた。事件が起きて、犯人らしき人が出てきて、刑事が地道な捜査をして、犯行の決定的証拠を見つける、ある種の水戸黄門のような典型、想像を上回ることも下回ることもない安心感が何度もリモコンの再生ボタンをわたしに押下させる。繰り返し見て飽きないのかと問われれば、もうとうに飽いている、ただ飽いていないことがないのだから、結局はなにをしたって同じことなのだ。先月から鳴ることのなくなった携帯電話はテーブルの上に飾りのように置かれているし、休日は充電をし忘れることすらもあった。いつの間にか電池が落ちていても、あの人からかかってくることのない携帯電話の存在意義を思い出せない。
 とてもありふれた終わり方をした恋愛を、自分がどうしてここまで消化できていないのか自分でもわかっていなかった。誰かに泣きつきたいような、誰かに話したいような気持ちが大きな風船の中に詰められて膨らんでいくのがわかる。ただ、吐き出す場所は無く、ひとりで同じ人間が死んで、同じ人間が捜査をして、同じ人間が捕まる映像を繰り返し見て、特別なことなんてなにひとつない休日を使い果たす。
 わたしが会いたいと思っていても、あの人がわたしに会いたいと思わなくなったら、恋愛関係は成立しない。至極当たり前のことをふとした隙間に考えては、当たり前のことのはずなのになぜ納得も理解もできないのだろうと思う。会いたい、好き、と確かに言って思っていた筈なのに、なにが変わればわたしではない人を好きになるのかわからない。置き去りにされたつめたい部屋の中で、繰り返し同じ映像を見続けて、ここで立ち止まったまま、本当の行き止まりに辿り着くことが出来たらいいのに、と願っていた。
 ラインの通知音は優先順位の下位になっていたものの、急な着信音はソファに沈んだ身体を起こすには十分な理由だった。浮かんでいる友人の名前であることに些かの落胆を覚えた自分に愕然とする。まだ期待をしているのだろうか、まだ、奇跡が起こると信じているのだろうかと。画面の通話ボタンを押していることに気付いたのは、携帯電話の向こうから、彼の透き通るような声が聞こえたからだった。

「……もしもし」
『今忙しいか』
「ううん、家」
『時間が空いたんだが、夕飯は食べたのか』
「んー……すみません、ちょっと体調崩してて」
『風邪か』

 ぐるりと部屋を見渡すと、たとえ病人のそれでも恐らくはもっと綺麗だろうという有様で「風邪じゃないんですけど、ちょっと」という酷く曖昧な言葉で誤魔化した。神戸さんが納得したように相槌を打つ声を出したあとで「そうか、急に悪かったな」と会話のスイッチが切り替わる。当たり障りのない定型文をお互いに繰り返した後で通話を切って、同時に電源ボタンを押してロック画面も閉じるとソファに横たわり流しっぱなしだったドラマをまた見始めた。彼との通話の数分間流しっぱなしになっていてもなんら支障はない、展開はもう覚えきってしまっているのだから。そろそろ国外逃亡をしようという犯人を二人の刑事が追い詰めている場面で、手に収めたままだった携帯電話をテーブルに放るように置いて目を閉じる。犯行当時のアリバイ崩しの話をまるでお経のように聞き流しながら、ここから抜け出したい、と漠然と思った。いったいどこに抜け出すというのか、神戸さんの誘いに乗って、着替えて化粧をして出かけていたら或いは抜け出せていたのかもしれないと思いながら。動けないこともわかっていて、どこにも行けないことを知っていて、浅い呼吸を続ける。
 ドラマのエンディングが流れ出した頃に重くなっている瞼を開けてリモコンへ手を伸ばし、チャプターごとに早戻していると不意に玄関の呼び鈴が鳴った。瞼だけでなく重怠い身体を起こしてそろそろと忍び足で玄関へ向かいそっとドアスコープに目を当てると、想像していたなんらかの勧誘ではなく、先程通話をしたばかりの電話主が携帯電話を取り出そうとしているところだった。サンダルに足を突っ込んでドアを開けると、神戸さんは携帯の画面に向けていた顔を上げてわたしを一瞥して途端に眉間へ皺を寄せた。

「本当に体調が悪いのか」
「……うーん、別にそうでもない、けど」
「どっちだ」
「ちょっと疲れてるだけ」
「少し痩せたな」
「んん、そうかも」

 基本的に財布を持たない彼は鞄も持たない。彼には似つかわしくない左手に下げていた真っ白なビニール袋ひとつをダイニングテーブルに置いて「これを食べるぞ」と言って中身を取り出す。彼が取り出したのはケバブサンドで、これが辛い方でこれが辛くない方らしいと言って指差すのをなぜケバブサンドなのだろうかと考えながら黙って見ていた。上着を半分に畳んでソファの背凭れに掛ける間に、ピタパンの隙間からはみ出ている千切りの黄緑と白の斑なキャベツだとか、真っ赤で少し熟れすぎたようなトマトだとか、スパイシーなソースの香りだとか、それを包んでいる真っ白の包み紙を見て、二択になると俄然選ばざるを得ない気持ちになる原理を早く解明してほしいなんていうところにまで思考は飛躍していく。

「じゃあ、辛い方」
「お前、ちゃんと食べているのか」
「ちょこちょこ」
「……そうか」

 相槌を打ちはしたものの全く信じていなさそうな面持ちの神戸さんが手を洗いに洗面所へ向かうのを見届けてから、わたしもキッチンの水道で手を洗って、冷蔵庫から取り出したピッチャーに入ったお茶を二つのグラスに注いだ。
 こんなに食べるのに気力が必要そうなものは久しぶりのような気がする。つるつるとした白い包み紙、きっちりと飴色に焼かれたスモーキーな香りの鶏肉の欠片がキャベツの間からちらちらと覗いて、オーロラソースみたいな亜麻色のソースが包み紙にべったりと張り付いていた。白のビニール袋とパラフィン紙に視線を移すと、その白さに目がちかちかする。
 ダイニングの椅子に座ってようやく、誰かの為にお茶を淹れたことさえも随分と久しぶりなことに気が付いた。最後に話したのもこの家で、違うグラスで、けれど同じお茶を二人で飲んで、どうにもならないことがわかって、あの人はここにもう来ることはないと言ったのがまるで先程の事のように鮮明に脳裏へ浮かび上がる。洗面所から戻ってきた神戸さんが椅子を引いた時に、まるでリモコンのボタンを押下し時間が巻き戻されたような気がして、顔を上げることができなかった。

「……今の胃には重いか」
「そんなことないよ、たぶん」
「食べ切れるのか」
「うん、別に家だからゆっくり食べればいいし」

 どうして彼がここへ来たのかを尋ねる気力はもはや残っておらず、また彼もわたしになにかを訊ねるつもりは微塵もないようだった。二人で無言のまま手を合わせてケバブサンドにかぶりつくと、始めは肉まで辿り着けず少しだけ辛いソースの染みたキャベツと分厚いパンだけが口の中に入ってきて、なんだか気の抜けた味だなと思う。食べ進めていくたびに口の端にべたべたとソースがついて、ティッシュで繰り返し拭うことも億劫になった頃にようやく肉の味がした。久々に味わう塩味のある肉はあたたかく、野菜はきちんと新鮮で冷たく、塗りたくられたソースはあたたかく、ピタパンはしっとりとしていた。嵩張るパンを黙々とお茶で流し込みながら、野菜と肉を奥歯で噛み砕いて身体の中に落としていく。伏せた視線では神戸さんがケバブサンドを食べているのかもこちらを見ているのかもよくわからず、遠くからまた一人目の殺人事件の音が聞こえた。

「これ、どこで買ったの」
「駅前に露店が出ていた」
「へえ、いつも無いのに」
「そうなのか」

 食事をするにも外食の場合は必ず予約を行う程には利便性を追求する彼がなにをどうしてこんなケミカルでジャンキーなものを買ってきたのかと疑問を持っていたけれども、どうやら物珍しい庶民の食べ物が気になって買ってきたらしい。きっとお祭りの出店なんかも経験したことがないのだろう。そういえばいつぞやにカップラーメンをいたく気に入ってオリジナルのものを作成していたことを思い出した。
 わたしより幾分か遅く、まるで小動物のようにゆっくりと上品に食事を進める神戸さんの手元から目を離して、唇についたソースをティッシュで拭った。指先も丹念に拭いて、手を洗いに行った方が早かったのにタイミングを逃してしまったなとぼんやり思う。静かになくなっていくケバブサンドとそれを食む彼の口元をまるでドラマを見ているのと同じような少し離れた場所で眺めて、本当は触れることができて、会話ができて、恐らくはわたしを心配して来たであろう彼をまるで作り物のような気持ちで見ていた。見られていることにはきっと気づいてはいるのだろうけれど、咎めることも諌めることもない彼が黙ったまま食べ進めている爪の色だとか形だとか左耳にだけつけられたシンプルなピアスの黒色だとかたくさんのものを数える。
 数えて、増えたり、減ったり、変わったものを確認して、わたしも減ったり、増えたり、変わったりしているのだろうか。取り戻すことは決してできはしないし代用品が欲しいとも思わないけれど、いつの間にか薄れて別のものが濃くなっていくのかもしれない。
 最初は食べ切れないと思っていたケバブサンドは、買ってきた彼よりも早くにわたしが食べ終えた。わたしは空腹で、きっと身体だけでなく心もずっと空っぽだった。グラスを呷ってお茶を半分ほど一気に飲み干すと、ようやく食べ終えたらしい神戸さんがこちらを一瞥し「先程よりも元気そうだな」と僅かに目を伏せてから言った。どうしてわかるのかがわたしにはわからないまま「すごいね、たぶんそう」と答えると、彼は無表情のまま小さく首を傾げてお茶を飲んだ。
 悲しみに似た空っぽが薄くなった代わりになにかがお腹の中が満ちて、それと同時に心がきちんと満ちていくのを感じる。ひとりでは決してできなかった単純な解決法を提示してくれた目前の彼は感心したように「結構美味いな」とケバブサンドを評するので、わたしはそれに心の底から頷いてみせた。