苦しくなる程に、真っ暗の部屋で息を殺して泣いていた。何度も何度も通知音と共に明るくなる携帯の電源を落として、どれくらいの時間が経っただろう。簡単に嘲られることも、軽んじられることも、うまくいかない仕事も、ひとりきりの日々にも慣れていたはずなのに、たまにこうして爆発してしまう自分がひどく情けなかった。
所詮偽物の家族は偽物に過ぎず、最後まで本当の家族になれるはずがない、と言ったら彼は怒るのだろうか。この場所でわたしがひとりで息を潜めて涙を零していることも、そうして考えていることが彼のことだということも、きっと神戸さんは知る由もないだろう。薄いくちびるが開かれてわたしの名前を呼んで、それが頬や首筋に押し当てられた時の幸福と、それらすべてのものものを失ってしまったら、という想像の恐ろしさ。彼がわたしを手放すはずがない、と傲慢すぎる考えを何度慰めるように頭の中に浮かばせても、駄々をこねる子どもに話して聞かせるようにしても、一向に恐怖を拭うことはできなかった。ほとほとついておらず、災厄のようなものが次から次とこちらへやってくる、無力さ極まれりな日は尚更だ。神戸さんに会いたい、けれども会ってしまったら、声を聞いてしまったら、自分の弱さのすべてを止めどなくぶつけてしまいそうで。
「……みず、」
嗚咽を漏らしながら咳を零す。噎せた瞬間に喉がひどく嗄れていることに気づいて、よろよろと立ち上がりながら手元にあった空っぽのペットボトルを掴んでキッチンへ向かう。体が重いのか、怠いのか、泣きすぎて浮腫んでいるのか、それすらもよくわからない。とりあえず、涙を流した分きっちり腫れて熱を持った瞼を人差し指でゆっくりなぞってみる。この様子だと明日にも響いてしまうだろう。
コックを捻ってグラスになみなみと水道水を注いで、一杯、ゆっくりと飲み干しながら、また神戸さんのことを思い出した。神戸さんだったら、こんな一気飲みをするわたしをはしたないだとかみっともないだとか言って叱るかもしれないし、もっとゆっくり飲めと背中を擦ってくれるかもしれない、なんて、ぜんぶ想像上の神戸さんなんですけど。実際、平生万年筆無精のわたしから一晩連絡が途絶えたところでわたし以上に筆不精な神戸さんが気にするとも思えないし、彼が今、仕事で国内にいるのか海外にいるのかすらわたしは知らない。
洗面所に行くことすらも億劫になってしまったから仕方なしにシンクで顔を洗って、自室に戻ったわたしは携帯の電源を入れて充電器に差し込んだ。ぴこんぴこん、と何度もポップアップが表示されてはフェードアウトを繰り返して、最後に画面に残ったのはいくつかの着信履歴とショートメール。予想外にも予想外すぎるその直球すぎる熱量に、いつの間にかわたしは携帯を取り落としていた。たぶん、怒っている。連絡を無視したと思われて、もし、神戸さんに嫌われたらどうしよう。一時の悲しいという感情、そしてそれを丸ごと彼にぶつけてしまいそうだという浅はかで子どもじみた恐怖心、たったそれだけで彼を失うのか。
電話をすべきかメールをすべきか、フローリングの床に座り込んだままひたすらにぐるぐると考えを巡らせていると玄関の方向から酷く乱雑な音が響いた。がちゃり、と同じ鍵を持つ者にしか鳴らすことができない音。何度も何度も、どう控えめに解釈して聞いても苛ついているとしか取れない声で神戸さんが広くもないわたしの部屋でわたしを呼んで、閉まっていたドアに手をかける僅かな音すらも耳に届いた。神戸さんがこの真っ暗な部屋を、そしてずたぼろなわたしを見るまで、あと、さん、にい、いち。
がちゃり、とノブを回して、彼は真っ先に壁際にある照明のボタンを容赦なく押した。浮腫んで重くなり、しかも暗闇に慣れきった瞳に蛍光灯の光は眩しすぎる。相変わらず綺麗な顔をした神戸さんは眉間に皺を寄せてあからさまに憤りを浮かべた表情をしていてもどこか品格が拭えない。それに比べてわたしはただの灰かぶりのようなものだ。シンデレラに変化する予定も余裕も要素もない、ただの灰かぶり。
「……佑真」
「ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「いま、携帯を見ました」
「それで」
「無視してた訳じゃないです、いや、嘘です、ちょっと余裕なくて、無視したと言えばそうなります」
気まずさと忸怩たる思いばかりが心に沈殿して、俯いた顔を上げられない。新品みたいに汚れも毛玉もない神戸さんの靴下が目に飛び込んできて、彼がわたしの目の前に、同じようにしゃがみこんだのだと気付いた。
「俺には甘えられないか」
「そ、んなこと、ないです」
「言いたくなかったか」
「……ううん、神戸さんに甘えたら、もうずっと甘えそうで」
「何を言っているんだお前は。こっちに来てみろ」
こっちへ、なんて言葉にして言われなくても、僅かに甘さを含んだ声がわたしを彼の身体に引っ張り込んで離さない。神戸さんの細いくせに力強く綺麗で雄勁な手が、赤子をあやすように何度もわたしの背中を擦る。目頭が再び熱を持ったけれど、泣いて泣いて泣き疲れたせいかこれ以上の涙は出てこなかった。
人のほっぺたを札束でひっぱたくような真似、と加藤くんに揶揄された文字通りの行為を平然と行う彼はしかし、冷酷に見えても決して非道ではないことをわたしは知っている。彼はただ最も効率的で合理的な手段を取っているに過ぎず、それらを手っ取り早く行う手段が偶然、保有する巨万の富だっただけなのだ。ただ、人より少し金銭感覚がおかしいだけ、たったそれだけ。他人の気持ちを慮ることができないわけではないし、傷つかないわけでもない。
「甘えても嫌いにならない?」
「そんな他愛も無い心配をしてたのか」
「し、してます」
「そんな事で嫌いになるほど矮小じゃない」
「……はい」
「俺がいないと駄目になってしまっても良い」
「うそつき」
神戸さんが「ばれたか」と言わんばかりに小さく鼻を鳴らした。依存をするのもされるのも好きじゃない、それはわたしと神戸さんの共通認識だと思う。わかってはいるけれど、こうやってタイミングよく現れて珍しくも少し怒った顔でわたしを抱き締めるヒーローのような彼氏がいないとわたしはきっと生きていけない。神戸さんが世界の、わたしが生きる全てだと断言してしまうような女にわたしはなってしまいたい、と心の底から思ったし、きっと神戸さんもそんな弱いわたしをでろでろに囲ってしまいたい、と今という一瞬だけは幻想のように考えたであろうことがわかった。わたしたちは、とてもよく似ているというわけでは決してないというのに、どうしてか時偶ぴったりと通じ合う瞬間があった。
「……神戸さん」
「何だ」
「さっき、ドア開けた瞬間の顔、鬼みたいだった」
「当然だろう、どれだけ心配したかわかっているのか」
「……はい、」
「そんな酷い顔で、それでも良いと思うのは俺くらいだ」
なにか零れそうになったわたしの言葉を押し留めるように、神戸さんはまたきつくわたしを抱きしめた。苦しい、と呟くと、神戸さんはわたしの耳元に唇を寄せて、ゆっくりと、一文字一文字丁寧にささやく。
「俺も、苦しい」
わたしはいったいなにを悩んでいたのだろう。あれだけ泣き腫らすくらいに頭の中を占領していた事柄のすべてが一瞬で吹っ飛んでしまうほどにわたしはこの人を愛していて、苦しくて、だからこの部屋で泣いていたのだと思った。とはいえそれはただの錯覚で、本当は別の悩みが、災厄が、確実にあったはずなのに。
わたしはこの人を、ねじ切れてしまいそうなほどに愛している。ウェアラブル端末の役割を有している左耳のピアスにそっと指先で触れると、彼はわたしを抱きしめたまま僅かに口角を上げて微笑んだ。
微笑んでいるはずなのに、神戸さんは先程と一寸も違わず、そして今わたしが感じている感情と一ミリの誤差もなく、どうしようもなく愛しさが噴き出して苦しくて苦しくてたまらないのだと、痛いほどにわかった。