耐荷重42キログラム



「酔っているだろう」

 テーブルに突っ伏したわたしの頭上から降ってくる神戸さんの声がひどく甘さを孕んでいるように聞こえて、脳がくらくらと揺さぶられる。
 冷えたリビングのテーブルに頬を強く押し付けてから、ゆっくりと息を吐くと自分でもはっきりとわかるくらいにアルコールの香りが鼻に付いた。自分で自分の頭の整理がつけられなくなっていると自覚していながらも、どうして目の前に彼がいるのかも分からない気がした。本来ならば、神戸さんが来ているタイミングでこんなことをするつもりは無かった筈なのに、テレビを見る彼の肩の曲線を見ていたら蓋を回していたのだった。もともと飲み倦ねていた不得手なアルコールのボトルは彼から出張先のお土産として貰ったもので、ひとりでしたたかに酔わなければならないときに使おうと思っていたのに、どうも気が緩んでいけない。
 彼に告げることも告げるつもりもない、自分が抱えている仕事の些細で些末な、自力で解決せねばならない悩みを一度ぐちゃぐちゃにリセットするために飲もうと思っていた。いや、そんなにきれいな言い方でもない。よくある自棄酒というもので、自分の身体を追い詰めたら贖罪になったりやけくそになったりすると思っただけだ。そもそも自分の抱える悩みと言うものは、ただのわたしの問題であって彼に相談することでも共有することでもないからだ。でも神戸さんはわたしに彼女らしく甘えて欲しいというのだろうか、と考えてみるけれど、生憎と相談という相談をした記憶がないからわからない。
 ただテーブルに置かれたコップにふたつだけ入った氷と並々と注がれた水をわたしは一気に飲み干して、彼の瞳を覗く。じい、っと覗くと、彼に覗かれているのと同じである事にも遅まきながら理解をして、ゆっくりと視線を下げた。
 向かいに腰かけた神戸さんは、テーブルに細長い指先を滑らせる。短く切り揃えられた少し白いところの見える爪をわたしはいつも綺麗だと新鮮に感じてしまう。つう、と指先を滑らせた彼が占い師のような声を出した。

「仕事、人間関係、誰かと揉めた」
「な、な、なに」
「顔を見れば分かる、仕事か」
「言わないってことは言いたくないって事だよ」

 占い師というよりは、どちらかといえば取り調べのようだった。あのハイテクなサングラスがなくても人の心が読めるのか。神戸さんは「ここ、動くぞ。図星の時」と言いながら、先程新鮮に綺麗だと感じた爪が、わたしよりずっとケアの行き届いた自分の唇の端を指差した。わたしもつられるように自分の唇に触れてみると、ちくちくとささくれができる程度には乾燥していて、同時にブラフであることを彼の表情で察する。やられた、けれど、先刻宣言した言葉の通り、話さないということは話したくないということだというのに。
 唇を触ったことを誤魔化すように彼の注いでくれた水に口をつけると、ただの少し冷えた水のはずなのに、しんとしていて、やけに美味しく感じる。彼は話をするまで全く動かなそうな、けれど飄々とした顔を崩さないまま立ち上がったと思ったら、また水を注いでくれただけだった。
 ただ、彼は瞳だけでなく、今度はきちんとした言葉をかけてくれる。どうしてわたしの目の前で、そんな顔で、こちらを見ているのか、誰にでも分かる当たり前の言葉で。

「無理に聞き出したことなんて無いだろう」
「……うん」
「だが、そういうやり方は身体に悪いということは分かるな」
「……はい」
「なら、もう少しここにいる」

 その口吻は言外に、心配だ、と言っているのだとわたしだけが知っている。グラスに落とされる氷のようにゆっくりと、でも馴染んで沈んでいく彼の言葉は沈んだ後に静かに確実に、染み渡って、溶けていく。誰でも使うことのできるありふれた、シンプルな言葉、難しい単語なんてひとつもそこには存在していない。その筈なのに、テーブルにわたしはまた顔を押し付けて、一瞬だけ瞼を強く閉じてしまう。瞳に浮かんだ水の膜を見つかりたくなくて、子供じみた方法で誤魔化したわたしのつむじを見て、神戸さんは何を思うのか。腕の隙間からそっと、彼を盗み見ると、テーブルをさらりと掌で撫でて「冷たいな」と目を細めて僅かに口の端を上げていた。

「冷たい」
「うん」
「水、もういいのか」
「あとちょっとしたら飲む」
「そうか」

 もう寒いな、テーブルを撫でた神戸さんがぽつり、と呟いて、空中を見つめた。左耳だけに付けられたピアスがちかちかと点滅するように光って、わたしはまた、顔を腕に、テーブルに、埋めながら、その光を瞼のうちがわに仕舞い込む。
 寒いのかよくわからないまま剥き出しの足をフローリングにひたりと押し付けると、地面が揺れているような、揺れていないような違和感がまだ残っている。いつの間にか、くらくらとした意識が少しずつ覚醒していくことと、自分がしっかりと酩酊していたことを理解した。
 そういえば神戸さんはテレビを見ていた筈なのに、どうしてわたしの目の前に座って、こちらばかり見て、言葉をかけてくれるのだろう。まるで夢を見ている、都合のいい夢を。一瞬そんな風に考えてから、現実であることと、それが夢であることの何億倍、いや比較対象にもならないほどの出来事であることに遅まきながら、気が付いた。
 同じ部屋、家にいるだけで、本当はずっと知っていてくれたのだろうか、自惚れかもしれないけれど、なんとなくそう考えてしまう。まだ少しばかり重い頭を上げてちらりと彼を盗み見ると、待っていたかのように彼もゆっくりとこちらに視線を向けてくれた。それまで見ていた空中に何もないことを、今はちゃんと気が付いている。

「……ありがとう」
「これも俺の役目だ」

 苦労をかけているのだろうか、けれど、目が合って、神戸さんがほんとうにほんの僅かにでもきっちりと微笑んでくれるから、どうしてか謝る言葉を見失ってしまう。ずるずると、きっちりした微笑みから逃げてしまうように再び顔を腕の中に収めると、「お前も難儀な性格をしている。面倒を見れるのは俺くらいだ」という声が頭上から降ってきた。
 怒っているでもなく、呆れているでもなく、ちょっと笑っていて、でもすごく幸せそうな声でもなくて、その正直な音が心地良かった。
 なにを悩んでいるか、ひとつも話していないというのに、身体は先程ひとりで飲んでいた時よりずっと軽く、神戸さんの声が睡眠を誘うかのようにじわじわと身体に回っていく。素直じゃなくてごめんね、うまく甘えたり頼れなくてごめんね、ずるずると滑っていく身体と意識の中で、伝えたような気がする。
 彼の答えを聞くことは終ぞなかったけれど、きっと答えは満足そうな微笑みひとつだと、わたしはきちんと知っているのだった。