逃避行は26時に



 うまくいかない毎日を、「彼がいない」せいにするのはわたしが悔しかった。
 隣の芝生は青いから、彼の仕事振りを見ては自分を見失いそうになるけれど、わたしの不調の理由を彼に押し付けるのはあまりにも勝手すぎる、って。部屋の鍵を静かに開けて「ただいま」と呟いてもそれは結局ひとりごと。履き慣れているはずのパンプスが今日は妙にきつくて踵が痛む。くるぶし辺りを蹴るようになんとか脱ぎ捨てて、重い溜め息を吐いたら一緒に涙がこぼれ落ちそうになってしまったから、慌てて天井を見るように上を向いて引っ込めた。……今、何時だろう。日付はもう変わってしまったんだろうか。壁に手を這わせて部屋の明かりをつけると腕の力が抜けて、バッグが肩からずるりと滑り落ちた。どさり、というそこそこ重量感のある音を立てたのとほぼ同時で、糸が切れたように仕事や諸々の緊張感から解放されたわたしにどっと押し寄せるようにやってきたのは誤魔化しきれない疲労だった。……つかれた、なあ。もうそれしか頭に浮かばないくらい、今夜は着替えるのも化粧も落とすのも、食事すらもどれもこれも億劫で到底出来そうにない。早く週末にならないかな、と願ったところで早く来るわけではないのだけれども。とりあえずカーテンくらいは閉めなくちゃ、と脚を動かす。狭い部屋だというのに、こういうときだけは窓までの距離がやたらと遠くに感じてしまう。駅からの帰り道の途中にも空を見上げてみてふと思ったけれど、今夜は雲ひとつなく月が輝いていた。
 あの人に、素直に思いを伝えられたらって、そう思う。きっとそんなに難しいことではない筈なのに。あの人を困らせたくないから、足手まといになりたくないから、なんて言えば、どこかの世界のヒロインみたいだけれども、生憎と困ったことにわたしはただ自分が傷つきたくないだけなんだということを知っている。
 ……電話してみようかな、でもやっぱり迷惑かな。カーテンを掴んだまま窓越しに月を見上げながらうんうんと悩んでいると、先程床に落として放置したままだったバッグの中のスマホが震えて、床を伝った振動は静かな部屋でいやに響いた。数秒といわずに切れた電子音、どうやら電話の着信ではなくメッセージが届いたらしい。正直、どこかで期待はしていたけれど、実際にあの人からだと知ったらやっぱり心臓は速くなる。「今、帰宅したところです」と指先で画面をタップして送れば、再び振動を伝えた携帯の画面はすぐ着信に切り替わった。

「……も、しもし」

 こんなすぐにレスポンスがきたことに驚いたのもあり、声が少し裏返ってしまった。ううん、恥ずかしい。

『俺だ』
「……お久しぶりです、神戸さん」

 わたしが、ずっと連絡するのを躊躇っていたせいで、お久しぶりと言うはめになっているんだけれど。彼も大概忙しい人だから、声を聞くのは一週間、いや十日ぶりくらいだろうか。体感時間というものは実際に過ぎゆくそれよりもっともっと長いものに感じてしまう。

『この時間まで仕事か』
「はい。やらなきゃいけないことが立て込んでて」
『そうか。あまり無理はしないように』
「神戸さんこそ」

 本当は、涙を流して助けを求めたかった。もう疲れた、会いたいって、可愛らしく泣きじゃくりながら言えたらいいのに。
 彼との付き合いは、そこまで短くない。実際、周りに話せば「長いね」と言われることの方が多い程には。最近なにかとよく顔を合わせることがある、彼とバディを組んでいる加藤くんには「よくこんなやつに付き合ってられるな」なんて顔をしかめられた。それでも、彼に真正面から向き合うことが出来ずにいた。未だに他人行儀な"神戸さん"という呼び方をしているもの、ひとえにわたしが他人に甘えるのが下手であることに起因している。

『急なんだが』
「はい、なんですか?」
『週末、時間が取れそうだ』

 はい、と短く返したわたしの言葉の語尾には疑問符が付いていたのかもしれない。神戸さんは僅かな沈黙で躊躇いを見せた後、ほんの少し呆れを含んだ声色で続けた。

『……会いに、行くという意味なんだが』

 それまで頑張れるか、と神戸さんはわたしに言う。声色に普段との変化が然程なくとも、言葉遣いが他人へ向けるそれと大差がなくとも、それがわたしだけに対して向けられるあたたかな感情を内包しているということはすぐにわかる。嬉しいだとか喜ばしいだとかそんな感情を通り越して泣きそうになってしまったから、勇気を出して月を見上げてみた。

「あの、神戸さん、今室内にいますか?」
『いや、外だが。うるさかったか』
「そうじゃなくて。あの、ひとつ約束してほしいんですけど」
『なんだ』
「週末、できれば、ううん、絶対、会いに来て、仕事のこととか、あと、たった今なんですけど、月が綺麗なこととか、そういうの全部、話聞いてください」
『……それで?』
「それで?」
『他は?』
「……ぎゅって、してくれたら、嬉しいです」
『ああ、約束しよう。俺からも、いいか』
「なんですか?」
『お前はもっと他人に頼っていい』

 それは遠回しすぎる表現で、たとえば加藤くんがこの言葉を聞いたところでそこに含まれた意味には気づかないかもしれない。けれども、「愛は多くを成し得るが、金は全てを成し得る」なんて言うくらいにはお金の力でなんでも解決することができると思っている神戸さんが、人の地雷は平気な顔で踏み抜く割に自らの領域へは易々と踏み込ませない神戸さんが、他人を慮るような発言をしているのだから、乱暴だなんだ冷酷だなんだと評される彼にも優しくて人間らしい部分があるのだと知っていることが嬉しくなってしまう。連絡があまりにこなくて少し寂しかったこと、わたしを支えたいと思ってくれていること。要点をまとめればそんな感じで、平生よりも僅かに辿々しく告げられる神戸さんの言葉はまるでわたしに勇気をくれる魔法だった。

『全部受け止められるくらいの甲斐性はあるつもりだが』
「……ありがとうございます。あの、まだ時間いいんですか?」
『ああ、そろそろ時間も遅い。また連絡する』
「はい。あの、電話かけてくれてありがとうございます」
『ああ、』

 たった数分、あっさりと通話は終わった。それでも画面を眺めていると2年以上使っているこのスマホすらも愛しく思えてくる。週末会ったら、いっぱい名前を呼んで、抱きしめてもらおう。今すぐには素直になれそうにないけれど、きっと神戸さんは受け止めてくれる。だって、そう言ってくれた。
 今夜ふたりは離れているけれど、背中合わせで夢を見よう。きっと、うまくいく。
 わたしはひとまず化粧を落とすために立ち上がった。変わらず月は綺麗で、わたしはこの気持ちをどうやって神戸さんに伝えようかと考えながら洗面所へと向かった。