真か偽かの二値論理 - true



 脳の理解が追い付く前に、一瞬のうちに状況はめまぐるしく変わっていた。
 目前にいる男の人は手に持っていた傘を肩にかけて左耳の黒いピアスに手を添えると、わたしの濡れた顔を指で拭いながらなにやら捲し立てるように話しだした。ヒュスク、という聞き馴染みのない単語と、現在地を確認、車を、というところはなんとか聞き取れたけれども、他は雨音にほとんどかき消されてしまったような気がする。黒のピアスがちかちかと赤く点滅しているのをぼんやりと眺め、通信機器かなにかなんだろうな、というのはわたしの足りない脳でも把握できて、どうやら彼はどこかに電話をしているようだった。するとものの数分で大きな黒塗りの車がやって来て、うわ典型的な外車だ、と唖然とするわたしのびしょ濡れの手を引いてドアの開いた車の中へと押し込まれる。運転席が見えないだだっ広い車内の革のシートはこれまたどう考えても高級なもので、ちょっとどころではなくバケツいっぱいの水を頭から被ったレベルで雨に濡れた服で座るのは些か憚られたのに、思いっきり肩を押されて無理やり座らされてしまった。髪から滴る雨水やら服に付着した砂利やら泥やらでシートが濡れて汚れていくにもかかわらず、隣に乗り込んだ男の人はそんなのは些末なことだと言わんばかりのなにひとつ気にしてない素振りで車窓の外を眺めているだけだった。
 車を走らせて数十分、辿り着いたのはテレビかネットかでしか見たことのないどこぞのホテルのような佇まいの豪邸で、「帝国ホテル……?」と意図せず漏れ出た言葉に対して「自宅だ」とまさかの邸宅宣言をされてしまった。豪奢なシャンデリアが煌めくきらびやかなエントランスに足を踏み入れた男の人はなんの説明をすることもなく、わたしの手を引いたままずんずんと進んでいく。リーチの差を考慮してもらえていないから大分ばたばたと覚束ない足取りで歩いているにも関わらず足音を響かせることなく吸収するカーペットもきっととんでもなく高いんだろうな、とぼんやり考えて半ば現実逃避のようにエレベーターに乗り込み、そして最終的な目的地と思われる一室はまるで洋画に出てくる高級ホテルのスイートルームのような様相だった。
 壁際に置かれた白の革張りの三人掛けソファ、その前にはガラスのローテーブル、それから見たこともないような大きさの液晶テレビ。広すぎる窓の向こうに見える雨の降る街は砂粒のごとく小さく見えた。

「まだ名前を聞いてなかったな。俺は神戸大助。お前は」
「……冠城李依
李依。こっちがシャワールームだから入れ。タオルはこれ、着替えはこれだ。脱いだ衣類はこのカゴに入れろ」

 自宅の個室にいちいちシャワールームがあるの?どういうこと?と疑問を口に出す暇もなく勢いで渡されたタオル類を慌てて受け取る。そのまま案内されたシャワールームに向かい、とりあえずびしょびしょの服を脱いでシャワーを浴びた。
 なんなんだ、いったいこの小一時間のあいだになにが起きているんだ。まったくひとつも状況が飲み込めないのだけれども、シャワーから上がったら身体をバラされて臓器でも売られるのだろうか。あまり健康的かつ健全な生活をしてきたとは言えないからさほど良い値はつかない気がする。それとも性欲処理にでも使われるのだろうか。いやでも、なんか結婚がどうたら、とか言ってなかったっけ。
 ……もういいや、別になんだっていい。一週間ぶりにシャワーを浴びられただけで充分幸せだと思おう。考えることを放棄した頭に降り注ぐ熱めのシャワーは心地が良かった。


「案外似合っているな」

 シャワーから出て脱衣所に用意されていた着替えは、蘇芳色のゆったりとしたシルエットのワンピースだった。着心地は文句なんて出ない程に良いけれど、タグに書かれたブランド名がわたしでも知っているくらい有名なものだったから、これもきっととても高価なものだろう。なぜ女物の服がこの生活感のまったく見えないこんな場所にあるのかますます意味がわからなくて不躾なのは承知の上で訝しげに神戸さんとやらを見つめると、スーツのジャケットを脱いで革張りのソファに座っていた彼はふと口角を上げて濡れたわたしの髪の毛を肩に掛けていたタオルでわしゃわしゃと乱雑に掻き回した。拭く、とかではなくて文字通り掻き回すという感じで、扱いが人間に対するそれではなく犬猫かなにかのような気がするのはわたしの勘違いだろうか。

「ドライヤーが洗面所にあるから持って来る」
「はあ」
「髪を乾かしたら、ここにサインしておけ」
「なにこれ?」
「婚姻届だ」

 しれっと言われた単語に目を丸くする。ローテーブルに投げ出された書類を雄勁な指先で差すように叩かれて、そこには間違いなく【婚姻届】と書かれていたし左側の必要事項は既に埋められていて、あとはわたしの記入欄のみがぽっかりと白く残っているだけだった。えっ?

「か、神戸、さん……」
「結婚をするんだ、大助でいい」
「いやそういうことじゃなくて」
「ドライヤーを持って来るから待っていろ」

 そう言って洗面所に引っ込み、そしてすぐにドライヤーを片手に戻ってきた神戸さん、もとい大助さんは、わたしをフローリングに座らせると背後のソファに腰を下ろして床やソファが濡れるのも構わずにわたしの髪を乾かし始めた。時々掠めるようにうなじや耳に当たるその指先は存外あたたかい。

「食え」

 クルトンとナッツの散らされたシーザーサラダ、鷹の爪が艷やかに光るシンプルなペペロンチーノ、透き通るような琥珀色のコンソメスープ。ガラスのローテーブルに並べられた湯気を立たせるおいしそうなごはんに思わず喉が鳴る。ここのところまともな食事をしていなかったからか、人間の三大欲求という欲望に忠実な身体は腹の虫も餓死する寸前と言わんばかりにお腹を空かせていたけれど、さすがに出会って数時間も経たない見知らぬ男の人から出された食事をなんの考えもなしに食べていいものなのだろうか。空腹と懐疑の間をぐるぐると行き来し、結果どうすればいいのかもわからず黙ってサラダの中に鎮座するトマトを見つめていたら、それはぷすりとフォークに刺さって彼の口内に消えていった。

「毒なんて入っていない」
「……いただきます」

 なぜわかったのかと追及するのは不毛だろうか。この人ならばそういうことをしてもおかしくはない、と思ってしまったこともきっと見抜かれてしまっている。それでも空腹に耐え切れなかった情けない胃袋のために、カトラリーケースから紙ナプキンに包まれた銀のフォークを取り出して握るとパスタを巻きつけた。これもどうやら、わたしがシャワーを浴びている間に神戸さんがこの家のお手伝いさんに頼んで作ってもらったものらしい。新鮮味はあるけれども、もはやこんなことでは驚きもしない。ぱくりと口に運んで咀嚼したペペロンチーノは、今まで食べてきたものとは格段に違う上品な味がした。

「……おいしい」
「そうか」

 貧困な語彙からはそんな陳腐な感想しか出てこなくて、夢中になって食べていたらそんなわたしを見て神戸さんはまた口角を上げて目を細めた。その笑顔と言えるのかも怪しい、微笑みにしてはあまりにもひそやかすぎる表情に、途端に恥ずかしくなって僅かに俯く。目まぐるしい展開にようやく追いついて冷静になって、今の今まで気づかなかったけれど、この人、世間一般的には結構格好良いと評されるであろう容姿をしているんじゃないか。そしてふと目線を下げた先に見えたのは、床に散らばった婚姻届だった。

「書く気になったか」
「もしかして餌付けされてます?」
「さあ、どうだろうな」

 そう言うとまた笑うように目を細めて、グラスに注がれたミネラルウォーターに口を付けた。
 そのグラスを握る腕からちらりと覗く腕時計も、無造作に投げ捨てられたソファの上のジャケットとネクタイも、そもそもどこかの高級ホテルのスイートルームそのもののようなこの部屋だって、どう考えても普通の生活をしている人間には手が届かない、もしかしたら一生経験することもないような高価なものばかりだ。突っ込みどころは数え切れないくらいあるけれど、まずこの人は何者なのか、どうしてわたしみたいな小汚い小娘に声をかけたのか、結婚というのはからかっているのか、それとも本気で言っているのか。どちらにしても相当危ない人だ。

「……まずあんたは誰なのさ」
「さっきも言っただろう、神戸大助。名刺でも欲しいのか」

 ソファの背凭れに掛かるように脱がれていたジャケットの内ポケットからこれまた高そうな革の名刺入れを取り出すと、神戸さんはそのうちの一枚をわたしに差し出した。そこに書かれていた"神戸大助"の名前の上には、わたしでも知っているような超有名財閥のロゴが印刷されていた。

「ここの地主が俺の父親だ」
「……そんなボンボンが、なんでわたしみたいなのと結婚しなきゃいけないの」
「結婚に理由が必要か」
「あたりまえでしょ!?」
「別にいいだろう。俺には結婚相手が必要、お前には衣食住が必要。利害は一致している」

 そうだろう、冠城李依。残ったトマトを口に運んで彼はにやりと悪人面で笑った。
 床に置き去りにされた婚姻届に視線を向ける。夫になる人、神戸大助。妻になる人の欄は空白のままだ。

「……言っとくけどわたし、本当にお金なんて持ってないよ」
「それは俺が持っている」
「お金どころか、住むところも家族もなんにもない」
「住むところはここで、家族は俺だ。不満か」
「……ほんとに信じていいわけ?」
「それなら結婚をする上で一つ誓約しよう。俺は絶対に嘘はつかない」

 ブルー・グレーの瞳が照明の灯りに反射して青く光る。わたしは口約束を信用しない。けれども、まっすぐな目でそんなことを言われてしまえば、もうなにも言えなくなってしまう。多分わたしも、長くはないけれど決して短くもない放浪生活で判断が鈍っていた。おいしいご飯が食べられて、コンクリートや土や草の上なんかじゃないちゃんとした場所で眠れて、ボロ雑巾みたいな服を着なくてもいい生活が手に入るならなんだっていい。そうあってくれと願うゆえの主観が作り出した幻かもしれないけれども、信じるだけの価値はあると思えた。
 これで、と渡された美術品かと間違うくらい精巧な彫刻が施されたシルバーの軸のボールペンを受け取って、空白のままだった欄を埋めていく。妻になる人、冠城李依。その枠に入る文字は書き慣れた他でもない自分の名前だというのに、まるで知らない人の名前のように見えた。

「契約成立だな、宜しく」
「……こちらこそ」

 それにしても紙切れ一枚の効力はすごい。わたしの人生は、たった数時間であっという間に180度変わってしまった。