真か偽かの二値論理 - false



 視界を奪う程に強く降り続ける雨が身体を打ち続けている。目の前でコンクリートに叩きつけられて跳ねる雨粒をぼんやりと眺めながら、まるで哀れな自分の胸のうちのようだと思った。降る雨は全てを道連れにして側溝に流れて消えていく。
 今まで持っていたものは一切合切、どこかへ捨て置いてきてしまった。あと残っているのは自らの身体と命だけ。生死への未練も執着もない。他にはなにひとつ持っていないのだから、いっそこの身体も命もどこかに捨ててしまいたい、一体どうしたら綺麗に捨てられるのだろうか。
 生物は常に何かの犠牲の上に成り立っていて、それがたまたま自分の場合は強者に詐取される弱者側の人間だっただけ、だから決して認めない。この世界の理不尽さも残酷さも、人間という存在を最上位のものとした神さえも。


「……こんな所で何をしている」

 ぽつり、と不意に頭上から落ちてきた声が、まさか自分に向けられているものだとは思いもしなかった。おい、聞こえているのか。もう一度投げかけられた言葉など聞こえないふりをして小さく抱えた膝の上に顎を乗せる。ずぶ濡れになったぼろぼろのシャツが冷たい雨を吸って、すっかり冷えきった身体は四肢の感覚が麻痺して震えることすらも忘れていた。このままここにいればきっと、呼吸をして酸素を無駄に消費しているだけのこの身体も捨てることができるかもしれない。もし死ねたら天国でピザでもアイスでもカツ丼でもなんでも好きなものを自由にたらふく食べられるようになりたいけれど、お世辞にも他人に自慢できるような立派な人生は歩んで来なかったものだから、恐らくは地獄へ堕ちるのだろう。生きているだけでも地獄のようだというのに死んでも地獄とはこれ如何に。悲しいなあ、仕方が無いことかもしれないけれど。

「……まさか死んでるのか」

 この人、まだいたのか。
 このまま無視を続けていても埒が明かないのを察して仕方なしに顔を上げると、声の主だと思われる男性はほんの僅かに瞠目し口の端から短く白い息を吐いてから、わたしにそっと傘を傾けた。雨なのに泥ひとつ付着していないぴかぴかの革靴を履いて、チャコールグレーのスーツとシンプルな模様のネクタイはまるで新品のように皺も汚れもなにひとつ見当たらない。袖からちらりと見える腕時計とその先に握られる傘は馬鹿なわたしでも一目で分かるいかにも高級そうなもの。どういった意図が含まれているかは知ったことではないけれど、男はわたしと視線がかち合うと軽く目を細めた。ぴっちりとオールバックに固められた濡羽色の髪に、冷淡を滲ませたブルーグレーの瞳。目の前にいたのは、まるで絵に描いたような"おぼっちゃん"だったのだ。

「こんな所にいたら死ぬぞ」
「……」
「その様相は家出か、必要なら最寄りの交番に連れて行くが」
「……っさい」
「何?」
「うるっさい!!」

 馬鹿みたいに掠れた声で叫べば、目の前の男性は予想外とでもいうように涼やかな瞳をぱちくりと瞬かせた。よく見ればわたしに傘を傾けたせいでスーツの肩がしとどに濡れているけれど、そんなことで今更罪悪感が湧くほど善人であるつもりもない。差し出された傘をぐいと押し退けた瞬間に触れた手は、生身の体温らしくひどくあたたかかった。

「なんなの、そんなキレイな格好してさ、どうせわたしのこと底辺の人間だって、心の中で笑ってるんでしょ!?」
「何故俺がそんな事で笑う必要がある」
「じゃあいちいち話し掛けてこないで!金持ちが暇潰しで同情でもしてるつもり!?だったらわたしのこと面倒見てくれるの?食べさせてくれるの?そんな気もないくせに偽善者ぶらないでよ!!」

 早口で一気に捲くし立てると、腹の底から怒鳴った所為か直後盛大に咳き込んだ。そういえばものすごく久しぶりに声を出した気がする。あまりうまく機能しない声帯は相変わらず掠れた声しか出せなくて、たったこれだけのことで心臓が悲鳴を上げていた。雨が降っているせいで湿度は高い筈なのに肺がひどく痛んで、喉の奥からは渇いた空気の音がする。もしかしてこのまま大声を出し続けていれば或いは死ねるのかもしれない、ああなんだ、もっと早く気付けばよかった。

「いいだろう」
「……なにが」
「お前の面倒を見る。何でも好きなものを食わせてやる。うちに来い」
「は?」
「名目が欲しいなら結婚でもするか」
「……はあぁ!?」

 顎に手を当てて何事かを思案するようにしていた男性は、ぴんと伸びた背筋はそのままにしゃがみ込んでスラックスが汚れるのも厭わない様子で膝を地面に付くと視線をわたしと同じ高さに揃えた。スーツの胸ポケットから取り出したこれまた高そうなハンカチで力加減など知らぬといった手付きで乱暴にわたしの顔を拭うと「見れない顔ではないな」なんてとんでもなく失礼なことを宣ってその人は口角を上げ鼻で笑う。低めの落ち着いた声はわたしの鼓膜からじわりと身体の奥へ浸透して、なんだか頭がくらくらした。
 これが後の夫、神戸大助とわたしの出会いと始まりである。