減らない月をあげる



「……いつからいたの」
「ずっと」
「……見た?」
「見た」

 エントランスのベンチに座る彼は随分と不機嫌そうだった。残業を手伝って、お詫びに送りますと言って聞かなかった後輩の男の子に告白された。けれどわたしはもう、そんなことにテンションが上がるほど子どもではなかったし、若いってすごいなあ、なんて呑気に考えてから、目の前でわたしが何か言うのを動物的な瞳で待っている彼に「ありがとう、でもごめんね」とだけ伝えた。自分がなんとなく一番かっこいいと思っている笑顔を浮かべてみると「そうですよね、」とこれまた爽やかな笑顔を浮かべて彼は去っていく。その後ろ姿を見送って、ふとマンションの方に視線をやると、今日は遅くなる、と言っていた快斗が目を丸くして座っていた、というわけだ。

「なんで外にいるの」
「そろそろ帰ってくるかなあって……」
「……それはどうも」
「いまの、だれ」
「同じ部署の後輩」
「俺いなかったら家あげてた?」
「あげないよ、汚いし」
「……綺麗だったらあげてたのかよ」
「そう言う意味じゃない」

 快斗が「ふぅーん」と、あまり納得してないみたいに呟いて、わたしの手からだらりとぶらさがった部屋の鍵をひったくる。ずんずんと前を歩く背中は随分と不機嫌そうだ。隠すことも、後ろめたいこともない、はずなのに、ひとり分ほど空いた距離に流れる空気は少しだけ重たい。

「かいとー」
「……」
「かーいとさーん」
「……なに」
「あれ、怒ってる?」
「……べつに」
「ちゃんと断ったよ」
「そんなの当たり前だろ!?」
「不可抗力じゃない」
「そうだけどさあ、」

 部屋の前でようやくこちらを振り向いた快斗は、わたしの顔を少しだけ眺めてから「まあいいや」と小さくため息をついた。全然よくないけどね!といわんばかりの表情を浮かべている割には、わたしから奪い取った鍵で開けたドアを、わたしが部屋に入るまで押さえて待っていてくれている。その愛おしい矛盾に頬を緩めれば、「何がおかしいんだよ」とわたしを咎める台詞がやや高い位置から降ってくるのだ。

「いやあ、べつに」
「……気になるじゃん」
「んー、ありがとう」
「だからなにが」
「やっぱ快斗がいいなーと思って」
「……機嫌とろうとしてる」
「ふふ、本心ですよ」

 「そんな顔されたら許しちゃうだろぉ」と、元々下がり気味の眉に更に角度がつく。困ったように笑うのはいつもの癖で、それはわたしが出会ってきた人の中で一番優しく、一番穏やかな顔だった。

「若いよねえ」
「……なにが?」
「誰かを好きになって追いかけて告白なんてもうできないもん」
「もうしなくていーだろ」
「なにそれプロポーズ?」
「あ、違う!ちがくないけど違う!」
「じょーだんだよ」
「……焦るからやめろよなー」

 あはは、とから笑いを浮かべれば、ふざけんなよーと顔を歪ませてみせる。21時を過ぎた時計の針を視線が捉えて、わたしのお腹がぐう、と小さく鳴った。

「ご飯買ってくるの忘れた」
「食べてきてねえの?」
「快斗と一緒に食べようと思ったのー」
「え、俺食べてきちまったよ」
「ばかぁー」

 さっきまでここぞとばかりにむくれた表情をしていたくせに、ごめんごめんとわたしにぺこぺこ頭を下げている。少し意地悪しすぎたかもしれない。ストックでいくつか買ってあるカップ麺用にお湯を沸かしながら、明日は彼の好物を夕食とデザートに用意してあげよう、なんて考えた。