「……なにしにきたの」
玄関の扉を右手で押さえながら不機嫌そう言い放ったわたしに、黒羽は「祝われにきました」と眉を下げて情けなく笑った。入ってもいい?とはじめから入る気しかないくせに訊いてくるこの人は少しだけずるいと思う。そしてその言葉に小さく頷いてスリッパを取り出しているわたしは少しだけ、いや酷く滑稽だった。祝われに、というのは彼の誕生日のことだ。それは知っている、知っていて、だからこそ「なぜ来たのか」を尋ねたのに。
「今日休みだった?」
「うん、非番、有給」
「明日は?」
「……明日、も」
「ふーん」
「……なに」
「いや、別に」
今日と明日、休みを取ったのは上司から有給が溜まっているからそろそろ使ってねと勧められたからで、普段はしない夜更かしをしているのも、なんの予定もない休日をいつも通りに過ごすのはなんとなくもったいなく感じたから、なのに。なんだか嬉しそうに頬を緩ませて廊下を進んでいく黒羽の考えていることがあらかた想像できてしまうのは少々癪だ。
黒羽との関係性というか、わたしの中での彼の立ち位置、みたいなものが明確に変わったのは、今から二週間ほど前。例の如く仲間内で開催された飲み会の帰り道、黒羽はわたしを好きだと言った。酔ってるの、酔ってない、という何度かの応酬があって、ずっとずっと好きだったと、少しだけ掠れた声がわたしを抱きしめた。
「電話したのに出ねぇんだもん」
「うん」
「わざと出なかっただろ」
「……気づかなかっただけだよ」
「そぉかぁ?」
「う、ん」
サマーカーディガンのポケットに入れたままの携帯をそっと握り締めた。何度も何度も表示されていた名前の人物は、いま、わたしの部屋のソファに座っている。酔ってない、と黒羽は言っていたけれど、まあまあな量を飲んでいたし、お酒にさほど強くないことも知っている。覚えていても覚えていなくても、本当でも嘘でも、何にせよ気まずくてそのあと呼ばれた飲み会には行かなかった。
いや、違う。本当は、ごめんだとか、忘れてだとか、そう言われるのが怖かったのだ。
「お茶、でも飲む?」
「んー、とりあえずいいや」
「……そう、」
「うん」
「……」
何も言わずに真っ黒いテレビの画面を見ているわたしに、黒羽は不満げですというのを隠そうともせずに唇を尖らせている。わたしはその、何か言いたげな仕草すら見なかったふりをして小さく息を吐いた。音楽も、テレビの音もない、聞こえるのは時折マンションの前を通り過ぎる車の音と、わたしと彼の呼吸音、それから、とくりとくりという心臓の音。
「……」
「ずっとそうしてるつもりか?」
「なにが、」
「こっち見ろよ」
「……やだ」
「なんで?お祝いしてくんねえの?」
「だからなんも用意してな、」
思い切って彼の方を向くと、あの日と同じ、潤んだ瞳がわたしをじっと見つめている。スローモーションのように近づいてきた唇がとん、とわたしの唇にぶつかって、シャツから伸びた右手が頬を優しく撫でた。そっと離れた唇、指先の熱。唇の感覚はまだ消えてくれない。彼が妖艶に目を細めて、それだけでわたしはひどく目眩がする。
「困らせるだけなら、諦める」
「え?」
「無かったことにされるのは……結構傷つく、かも」
「……覚えてたの」
「はぁ?覚えてるに決まってんだろ」
「酔っ払って適当に言ってたのかと……」
「まじかよ、俺どんだけ信用ないんだよ」
諦念を滲ませつつも本当に心底落胆したような顔で項垂れるので、わたしは思わずごめん、と彼の顔を覗き込む。長い睫毛の影、すっきり通った鼻筋、切れ長の目。元々上がり気味の口角にきゅっと角度がついて、こつん、とおでこがぶつかった。みるみる体温が上がっていくのがわかって、思わず目を逸らすと頬を両手でぱちんと挟み込まれる。
「そんな顔されたら、期待するよ俺」
「いひゃい、」
「へへ、なんか言うことは?」
「……誕生日おめでとう」
「ありがとな、ほかは?」
「…………以上」
「だーめ」
柔らかい指の腹で、わたしの頬を撫でる黒羽は、わたしの反応を見て面白がってるみたいだ。これじゃあ全部言いなりじゃないか、そう思うのに。わたしの身体は、わたしの口は、彼が望む通りに動いてしまう。
「…………すき、」
開けっ放しだった窓から、夏を予感させる生ぬるい風がそっと吹き抜けた。日付が変わろうとしている。できれば今日中に、ずっとずっと好きだった、痛いほど従順にあなたを待っていたと伝えなければ。
綺麗に弧を描いた唇と、天井をぼんやり見つめながら、そんなことを考えた。