快斗から連絡が入っていて、わたしの家に来ていることはわかっていた。最終電車にぎりぎり滑り込みで乗り込んで一息ついたあと、ぼんやりと、快斗が殺風景な自分の部屋で何をしているのか考えながら、でも結論として一人で暮らしているはずの家で空虚な「ただいま」を言わずに済むという事実だけは確実で、それだけで心は穏やかになる。
改札をくぐってから、そういえば、電車に乗ったら迎えに行くから連絡してくれ、と言われていたことを思い出す。家までの十分程の道のりは連なる街灯のおかげでそこまで暗くもなく、大通りに面しているからいいだろう、とそのまま家へ向かった。エレベーターで運ばれながら鍵を取り出し、廊下に出ると普段ついているはずのない明りが今日だけはついている、分かっていてもそれだけでいつの間にか口元が綻んだ。
鍵についているキーホルダーを弄びながら、ゆっくり、足音を立てないように廊下を歩き、鍵を差し込む。玄関のドアを開けると、快斗が「はや」と言って、目を丸くしてわたしを見た。
「ただいま」
「駅着いたら迎えに行くって言っただろぉ」
「忘れてたの」
「あ、俺も言い忘れた」
忙しなく動き回っていたであろう快斗がぴたり、と立ち止まり、わたしに視線を、照準を合わせたのが分かった。スナイパーに狙われているような気分、けれどそれならばここまで心臓の奥が満たされることはないだろう。にこり、と笑った快斗が口を開く。
「郁、おかえり、今日もお疲れ」
「……ありがとう。あれ、なんか、ごはん?」
ありふれた、ただいまとおかえりの四文字を往復するだけで、わたしは一瞬、全ての不幸を忘れてしまいそうになる。
ただ、部屋には鼻孔を擽るような魅力的な料理の匂いが漂っており、つい、それを言葉にしていた。ちいさなリビングテーブルにはもう料理やお皿がセットされている。向かい合うように並べられた料理や、お箸や、お揃いのグラスが、なんだかカップルか新婚みたいだった。実際カップルなのだけれども、本当に“カップル“だなぁと思うことなんて普段そうそうない。愛がなくても愛していると言えるし、好きでなくてもたぶんキスが出来たり、そんな人たちがいっぱいいる世界だから。でも、このテーブルに並べられているものものたちは、そして彼が作った、彼が作ってくれた!その料理は、わたしを思っている感情がたくさん込められていると信じて、疑うことなんてできなかった。自惚れという言葉で謙遜することすら愚かなほどの光景。作り置きの麦茶が入ったピッチャーを冷蔵庫から取り出して、振り返った快斗が「ビールは?」とわたしに尋ねた。
「ううん、だいじょうぶ」
「そ」
「出来立て?」
「一応。風呂先入るか?」
「いや、今食べる、手だけ洗ってくるね」
「了解」、という声を背中に受けたわたしは洗面台で手洗いとうがいを済ませたあと、自室に戻ってヘアクリップとヘアゴムに手を伸ばした。前髪を止め、ヘアゴムで髪をしばって、けれど、服装は仕事終わりのまま、というよくよく考えたら彼に見せたことは中々ない光景で快斗のところへ戻る。未だ忙しなく料理をする彼に「なんかする?」と声をかけると、「麦茶注いどいて」と言葉が返ってきた。暗に他に必要がない、と言われているのを理解したわたしはいつも座っている自分の席に座って、二人分のグラスに麦茶を注いだ。満たされていく夏の匂いと、手元の冷たさを感じながら、料理をする彼の後ろ姿を眺める。普通はこれ、彼氏のポジションなのかな、いや、最近はそういうの関係なくなってるし、なんて思っていると、メインらしいお皿を持った彼が振り向く。
「ふは、なにそれ」
「いつもこうしてるでしょ」
「違うだろ、服と合ってねえし」
「しょうがないの、お風呂よりご飯だから」
「あれだな、お風呂?ご飯?みたいなやつ」
「それともー?」
「わ・た・し?……うるさいなぁ、もう」
少しだけにやけた顔で言われた「うるさい」にはわたしを笑顔にさせる効力しかない。「ほい、出来ましたあ」、といいながら自分自身でも納得した出来なのか彼はにっこりと微笑んで料理をテーブルにどんと乗せる。ただシンプルに、反射的に「おいしそう」という声が上がっていた。お世辞が下手なことと嘘がつけないことを知っている快斗が既に満足そうに、先どうぞ、と視線でわたしを見つめる。シンクに殆どない洗い物がちらりと目に入って、相変わらず手際が良くて完璧だな、と思いながら両手を合わせて、「頂きます」をした。本当にタイミングが良かったらしく、きちんと出来立ての湯気を上げている料理を取り皿に乗せて、少し息を吹きかけてから口をつける。おいしい、と思うのと、食べたことがある、という覚えと、こんなメニューが彼のレパートリーにあっただろうか、という疑問が同時に浮かぶ。
「おいしい、」
「良かった」
「こんなの作れたっけ」
「これ?これ、前行った店でおいしいって言ってただろ、」
「えっ、それで作れるの」
「なんとなくな、なんとなく、出来てる?」
「出来てる!すごい!」
すごいすごい、と食べていくうちに数か月前に彼と行った、仕事先の人に教えてもらったというそのお店の料理を思い出した。確かにとてもその料理は美味しくて、わたしは「家でも食べられたらいいねえ」と言った、そんなことまで覚えている。
炊きたてのお米と、料理を口に運びながら、思う。いつからこの料理のことを彼が考えていたのだろう、いやきっと、あの瞬間からだ。
「たまにはな」
「ご飯作ってくれる、ってこと?」
「飯は別にいつでも作るけど、うーん、」
「どういうこと」
「なんか、ご褒美?これは?」
「なんで聞いたの」
「知らねぇもん、郁の好きな味に出来てるかわかんねえし」
「好き好き、美味しいよ」
自分だって仕事で忙しいくせに、快斗は目を細くしてふにゃりと微笑んでわたしを見つめる。箸を動かすのだってわたしばかりで、快斗はそんな風に咀嚼するわたしを満足そうに見て、ごくたまに料理を口に運ぶばかりだ。次は、わたしに余裕が出来たら、彼の好物を作ってあげたい、いつもいつも、思いやられてばかりだ。
「ありがとう、いつも」
「なんで?俺がしたかったからしただけだし」
「……うん」
「余裕が出来たらでいいから、全部。そんなんお互いさまだろ」
好き、単純に言葉がこぼれそうだったけれど、口の中に入っている料理が言葉の邪魔をした。
どうしてこの人がこんなにやさしいのかも、どうしてこんなにわたしを愛してくれているのかも、わたしは知らない。知ることはできなくても、その愛を、優しさを、別の形で返すことができることはわかっている。
彼の作った料理がおいしいうちに、と少しばかりの会話を挟んでほころぶ口元を抑えないまま、料理を口に運んだ。
快斗に、優しい彼の瞳に映るわたしは、どんな風だろうか。言葉を尽くしても、尽くしきれないすべての事柄に、泣きたくなるほど胸が一杯で、顔を上げる。視線を合わすと、快斗がひどく幸せそうに笑って、「へんなかお」と言った。
本当は泣きそうな顔だって、知っているくせに。