子供が眠る星際の畔



 アルコールがおいしい時期である。夏という暑苦しさを想起させる響きには僅かばかり暗澹とする部分があるものの、ビールという単語には心が踊る。暗澹とするのは、水着や日焼け、暑さ、化粧崩れ、その他諸々の憂鬱なものものだ。
 所謂華金、明日から休みという素晴らしい曜日に友人たちと連れ立って夜の街でお酒を飲んだ。ビール、焼酎、ワイン、ハイボール、その他諸々。したたかに酔い、したたかに食べ、けれど理性がわたしたちを終電の三十分前に電車に乗せた。同じように帰路につく人々が収まる四角い箱の中でもみくちゃにされながら運ばれていく。
 最寄りの駅に着いたのは日付が変わるか変わらないかの瀬戸際の時間帯で、湿度の高いべたついた夏の空気が待ってましたとばかりに全身へ絡みついてきた。目の前のベンチに腰かけて、鞄に入っていたペットボトルの水を飲み干しながら、反対の手で携帯を開く。先ほどまで一緒にいた友人たちも続々と家路についているらしく、スタンプやら短文を送りながらグループラインをスクロールしていく。それとは別に残っている未読メッセージは珍しくも彼からで、どうしようか、と躊躇ってからいつもとは違うボタンを押した。
 五コール以内に出なかったら切ろう。仕事場か家か、それらをきちんと確認してからでないと普段彼に電話をしないわたしが、今、彼が電話に出ることの確信もないままにコールを聞いている。プルルルル……、一つのコールがいやに長く感じる。駅でゆらゆらと歩いているサラリーマンの一人と目が合って、さっとすぐに逸らした。
 今、おびえているのか、楽しんでいるのか、自分でもわからないまま、アルコールの影響も相俟って心臓は早鐘を打っている。

『おー、どした?』
「あ、ごめん、仕事中?」
『や、全然、フツーに家』
「なんか、ライン来てたから」
『珍しいじゃねーか、から電話かけてくるとか』
「うん」

 電話口の向こうには見えていないのに律儀に頷くと、夜の生ぬるい風が頬を撫でていく。けれど、先程話した言葉の他に彼に語るべき言葉が存在しないことに気付いて呆然としてしまう。鮮やかな水色のベンチに腰かけたまま、目の前の開けた闇の中で、何週間も会っていない快斗のことを考えた。

「……会いたいな」
『俺も』
「ね、会いたい、好き」
『俺も好き。今どこいんの?』

 最寄駅の名前を挙げ、ホームのベンチに座っていることを告げると、今までの会話がまるでなかったかのように快斗は「はやく帰れ」とお母さんのようなことを言う。「電話、家着くまで繋げとけよー。時間も時間だし」、と諭すように淡々とした声がわたしの耳に流れてくる。
 彼の言葉にはいつでも従順になるわたしは、引っ張られるようにベンチから立ち上がって歩いて改札口まで向かう。
 グラスの音や、遠くに聞こえるテレビの音、電話口の向こうから僅かに届く快斗の生活音をBGMにしながら改札を抜け、家までの十分の道のスタートを切った。とはいっても、駅から家までは大通りで、街燈も多ければ車通りも多い。

『そっち、結構騒がしいな』
「いつもこんな感じ。まぁ、その分人通りも多いし明るいよ」
『ふーん、一回俺も行かなきゃな、が住んでるとこだし』
「なんもないよ」
の家があるだろ』
「……へへへ」
『危ねーからちゃんと前見て歩けよ』
「うん」

 いい子、と快斗がとっても甘い声で言うから、抜けかけたアルコールが舞い戻ってきたかのように頭がふわふわとしてくる。あとひとつ、信号が青になったら、二、三分でわたしの家にたどり着いてしまう。

「もうすぐ家だよ」
『ちゃんと鍵閉めるまで切るなよ』
「閉めたら切らなきゃダメ?」
『別にいつまででもいーよ、お前が寝るまででも』

 信号が青になり、見慣れた道を歩き、マンションに辿り着く。一気に喧騒から離れたことに、電話の向こうの快斗も気づいたのだろう。先回りして「いまエレベーター待ち」と言うと、まるで子どもを宥めるように「はい」と快斗くんが笑った。電話越しに介抱されているみたいだ、と思ったけれど、実際本当にそうなのだろう。
 鞄から鍵を出して、ドアを開けると、朝と同じ景色の玄関がある。電気をつけて、鍵を閉めて、鞄を置いて、ベッドに倒れこむと、未だ残るアルコールで頭がくらくらした。

「つきました」
『お疲れ、飲んでたのか?』
「そう、友達とちょっと」
『へぇ、いーじゃんか』
「楽しかったよ、快斗とも電話出来たし、良かった」
『俺も。じゃあ、切るな?』
「……うん」

 さっきは眠るまで繋いでくれるって言ったのに。そんな我が儘が言えるわけもなく、「おやすみ」と快斗が言って電話が切れる。快斗の聞くこともなくいきなり電話をかけただけでも、わたしにとってはかなりの我が儘だったのだから。先程まで快斗の声が流れていたちいさな機械を耳に当てていると、また快斗くんの声が聞こえるような気がした。
 そのまま、ぼんやりしているといつの間にか頭と目が重くなり、電気をつけたまま、化粧も落とさぬまま、わたしは眠りに落ちていた。

 朝は最低最悪の気分で、泥のような気分で顔を洗い、歯を磨き、水を飲み、人並みの二日酔いに苦しんだ。
 少しずつ日常の体感を取り戻し始めた頃、携帯の存在を思い出し、ボタンを押すと、快斗からラインが来ていた。

【酔っぱらってる、めっちゃ良かったわー】
【でも、電話切りたくないならそう言えって】

 恥ずかしくて死にそうになるくらい、昨夜の駅から家までの会話がぶわっと一気に押し寄せてくる。
 わざわざ電話口で「珍しい」だとか「どうした?」だとかいうようなことを言ってこなかったのも、楽しんでいたからか。いや珍しいは言ってたかも。どうしたも言ったかな。会いたい、好き、黙っているつもりだった本音をニヤニヤとあの小憎たらしい表情で聞いていたであろう意地の悪い彼氏のことを考えて、両手で顔を覆う。
 「忘れてください」、そう送ると、恐ろしいほど速いスピードで、「嫌」の一文字だけが返ってくる。
 酔って気持ちよくなっている時に電話するのは後々の精神衛生を考えると宜しくないということを学んだ。多忙であるはずの彼のこういうタイミングの良さと悪さに、そして意地の悪さと良さにわたしは溜息をついた。