既往の音と符の墓場



 姓名判断やろう、とベッドに寝転んでまどろんだ猫みたいに語尾を伸ばした声の快斗が言った。
 わたしはテレビにうつる高級料理がいくらかの値段の予想をしている最中で返事が少し遅れてしまう。なんとかのフィレ肉をパイで包んだやつ、いくらだろうか、ううん、八千円、八千円って、一品に?
 快斗が鳴くみたいに「なぁ」と言って長い腕でわたしの首筋をさっと撫でた。ちょっとだけ身体を起こしたらしいけれど、振り返ってみるともう寝転がっている。変な所だけ素早いなあと思いながら、テレビではなくて快斗に視線を合わせながら「どうやって?」と訊ねた。その質問が来る事を分かりきっていた、という顔の快斗がタブレットを触って、ゆっくりと光を取り込むような瞬きをする。重くないのかな、と勝手に心配になる程しっかりとした睫毛を生やした瞼が何度も何度も動く。

「来て」
「なに」
「いいから」

 彼が腕枕をする意思を示す様にベッドの片方を開けて、そこに腕を伸ばす。半袖の紺色のシャツから伸びる腕の筋肉や血管が快斗がきちんとした成人男性であることをわたしに思い出させる。血が巡っていて、体温があって、生きていて、意志があって、それはわたしと共有できない、一個人の男の子。彼の固い腕(本人にそう伝えたことはない)に後頭部を押し付け、真上を見ると大きなタブレットに「無料で当たる姓名判断」というページが開かれていた。一番上にそれが横書きで書いてあって、縦のそれより小さい筆書きみたいな字で黒羽快斗、という字が載っている。天格、人格、地格と割り振られたそれに数字(画数)や、大吉から大凶までの割り振りがあった。とっくに自分のページは読み終えているらしく、さっと下までスクロールして、ぼそぼそと結果を呟いた。わたしに伝えているのか、ただ自分の為に反芻しているのか、よくわからないけれど。一番下までスクロールすると、黒羽に相性の良い画数の名前や、快斗に相性の良い画数の苗字まで出てきた。
 それの幾つかに、いかめしいねだとか、こんな苗字マジでいんの?だとか、お互いに言い合った。唇が触れ合ったっておかしくないくらい近くに顔があるはずなのに見ているのは名前の組み合わせの並ぶ画面だけだ。見たことも聞いたことも無い漢字の羅列を眺める。一番上まで画面を戻した後で、快斗がわたしの名前を入れた。フルネームを覚えていることがほんの少し意外で、でも意外だというのも失礼でただ黙っていた。結果は取り立てて面白いこともなく、いくつかおどろおどろしい黒文字もあってもしかしたら標準より若干悪いかもしれない程度だ。それでも快斗は先程より少しばかりゆっくりと画面をスクロールする。

「苗字変えよ」
「え」

 入力欄にはわたしの苗字と名前が載っていて、その名前の部分を器用に彼が快斗、と打ち直す。語呂が良くないのか、快斗に黒羽という苗字がしっくりきているせいか、なんだかただ居心地の悪い文字列だった。黒羽快斗という字面の総格がどちらかといえば芳しくない結果で、けれどわたしの苗字に変更した方が総格どころか外格も仕事運もよっぽど酷い結果だった。ちらと彼の顔を見上げると、別にどうってことない顔をしていた。腕枕が痛いみたいなふりで頭を僅かに動かすと、彼がわたしを見て、その距離の近さに首が引っ込んでしまう。「なに」と、トーンの上がった快斗の声がわたしをからかう。からかう声を出したくせに、その反応にはたいして興味がないのかこちらを見ることはない。

「じゃあ反対」
「黒羽?」
「そうそう」

 ぽちぽちと、よろよろと快斗が文字を打つと予測変換に「は」とか「が」とかいう文が出てきて、わたしはなんだか見てはいけないものを見たような気がして目を逸らした。読み込みの時間なんて殆どなく結果は出てきて、それをまたふたりでゆっくり眺めた。やっぱり苗字は黒羽の方がいいだとか、組み合わせるとよくないだとか、快斗は婿入りするなら考えた方がいいだとか。どうでもいい話ばかりをあたたまった少しかたい快斗の腕の中で繰り返し話した。
 わたしの玩具みたいな色の爪が画面に触れると、その手が動くことを知らないみたいに快斗はちいさく動く。けれどわたしは動くことができて、苗字も名前も、体温も意志もある。
 そういえば、フィレ肉のパイ包みはいくらだったんだろう。少しだけ快斗に背を向けるようにテレビを見れば既に後続の違う番組が始まっていた。
 タブレットをどこかへ追いやった快斗がわたしの腰に腕を絡めたあとで、首の後ろにそっと歯を立てる。眠くて仕方がないみたいにとろけた声で「カップルみたいなことしたな」と快斗が笑った。するするとTシャツに這入ってくる指先の触覚を確かに感じながらわたしはなんと応えるべきかと考えて、結局なにも返すことはできなかった。
 フィレ肉のパイ包み焼きをいつかどこかで食べてみたい。一万円でも、八千円でもいいから、一人で。
 なぜかいやに冷たい快斗の指の感触、首筋をかじられる淡い痛みに目を閉じながら、ぼんやりとそんなことを考えた。