満足そうに目の前でハーブティーを飲んでいる彼女を、俺はぼんやりと見つめていた。
二人にも関わらず、閑散とした喫茶店で俺たちは四人席に通されている。理由は彼女の持っている大きな紙袋。自分の座席の隣に置かれた二つの紙袋を、紅茶を飲みながらちらりちらりと見ては満足そうに笑顔を見せる。
今日も買い物に付き合ったし、前回付き合った時に買ったピアスが彼女の耳朶で揺れている。会うたびに、俺の選んだ服を戸惑いも躊躇いもなく買っていく、変わっていくその姿を、まるで違う人のように思いながら。似合わないものを薦めるわけではないけれど、少しくらい逡巡したっていいはずなのに。ふわふわとした白のピアスが揺れている。
直ぐに何もかもを忘れてしまったかのように不安げに、湯気のたつカップに唇を押し当てて、舐めるように紅茶を飲んでいた。
紙袋に入ったアウターは彼女によく似合っていたし、あまりつけないというブレスレットも多分よく似合うだろう。まるで敏腕のショップ店員にでもなったようだ。可愛すぎない、すこしトーンが暗いロータスピンクの堅いニットも襟元が少し開いていて、彼女の白い肌によく似合っていた。別に俺が買っても良かったのに、とまた考えて、けれど毎回断られるその提案を飲み込む様に、俺にとってはもうぬるい紅茶に口をつける。紅茶と同じ瑠璃色の彼女の瞳が、疲れと眠気を隠すことなく、とろんとしたまま俺を見ていた。
「眠いか?」
「眠いっていうか、なんか、ぱーっとし疲れ?」
「やっぱり急に外出るからじゃねえか」
「えぇ、でも結構楽しいよ、快斗の好みも分かるし」
「別に全部俺の好みにしなくても、好きなの着ればって思うけどな」
カップの細かな金の縁取りを、トップコートの塗られた爪でゆっくりと拭いながら「わたしの好みだよ」と彼女が笑った。確かに出会った時から服の好みが大きく変わったわけでは無い。むしろ元々の服装も、通っている店も俺の好みだったわけで、何かを俺が思い巡らせたり、躊躇ったりする理由なんて無いのだ。
すぐにあたたまって、店先に入る前よりずっと赤らんだ頬で、ふわりと生ぬるく砂糖味の息を吐いて俺を見る瞳。非の打ち所がない彼女の、その非の打ち所のなさに俺が初めて困惑しきっていると言ったら人は笑うだろう。
確かに料理はあまり得意ではないし、掃除も几帳面な方ではない。それでも、何も言わずに、例えばちょっと掃除し残している、と俺が思った所を片付けておくと次からその場所はそのまま維持されている。掃除をする必要が無くなるように、いつでも汚れないような、特別な場所に変わっているのだ。料理が同じくらいの速度で向上しないのも、俺が彼女に料理を作る愉しみを見透かされているような気がする。多分、全部が甘やかな「気のせいだよ」と「そんないい彼女に見えるんだ」という砂糖菓子じみた声が俺の考えを奪うのだけれど。
記憶を想起する限り、出会った頃はこんなに穏やかではなかった。あの頃はお互い若かった、と今なら笑って言える。俺は二代目怪盗キッドとして親父の遺志を継いでパンドラを探し回っていたし、彼女は警察一家の末娘としてサラブレッド同然の扱いを受けていた。彼女自身も上昇志向が強いたちで、俺は白馬と同様に彼女からも常に疑いの目を向けられていたのは苦い思い出でもある。親父が生きていると判明して漸く肩の荷が少し下りたような気がしたし、それからは事情を知る彼女に弱音を吐くことを厭うこともなくなった。
「こうやって、彼氏と買い物行けるの、結構嬉しい」
「……そうかぁ?」
「うん、今までの彼氏なんて、全然付き合ってくれなかったよ」
「あー……、まぁ、そうなんのか」
「大体面倒臭そうにしてるか、どっちでもいい、とかね。有意義なこと言ってくれるの、快斗だけだよ」
いつの間にか温くなっていたらしく、あっという間にカップの紅茶を干して、ゆっくりとポットの中身をカップに注いでいく。照明のせいかモルフォ蝶の構造発色の様に輝いた甘く賑やかな香りが先程よりは主張をしないまま、でも甘く嫋やかに立ち上る。
新しいお店も教えて貰えたし、と言って、白く小さな子どもじみた手が、今日立ち寄った店の、つるんとした淡い色のいやに大きい紙袋を撫でた。
「快斗の買い物に付き合ったら迷惑?」
「んー、べつに」
「口は出さないよ」
「どっちでもいーって、それは」
「でも、やんややんや言われたくなくない?」
「俺、結構言ったけど」
「それはわたしが聞いたからいいの」
「いつかね、嫌じゃなかったら」、何かを壊さないような思慮深さは、俺との確かな距離を強く感じさせる声でもあった。結局、強く疎ましがってみたり、怯えてみたり、勘繰ってみたりしたところで、宝石のような色をした彼女の瞳に宿る感情を俺はひとつも汲み取れないでいる。しかも、ただ一瞬の会話で出てきた、顔も知らない、俺の前に付き合っていた男という存在が言葉で過るだけで心にさざ波が立っていた。
冷たく固い味の紅茶で喉を潤しながら、顔も知らないその男たちの無関心さに本来は感謝すべきだと考えてみる。そんな男だから郁が今俺と楽しそうに買い物に行っているのだ、と、俺の彼女になっているのだ、と。けれど、手中にある彼女の存在を改めて尊ぶことよりも、どうしてか、ただ俺の彼女であるはずの郁にあるもっと奥の、過去が存在する事が不思議で堪らないと俺は思ってしまう。
俺にだって人に話せない過去はいくらでもある。幼馴染の青子にも、友人にも、親にも、寺井ちゃんにも、郁にも。けれど、俺が何かを訊いたとき、郁にはすべてを答えて欲しいと思うし、その答えは俺の求めてる答えであって欲しいとも思う。
いつも変わることなく、ひたすらに飢えていることを、直ぐに俺は忘れてしまう。彼女の微笑みや、当たり前に隣で不器用に切られる野菜の形を眺めたり、今の手持無沙汰に組まれた指の形と、細い金の指輪も。毛先までつるんとしたチョコレート色の髪、俺と選んだ服、気に入っていると笑う口元の赤み。持っている、全部を持っている筈なのに、いつか失うと思いながら持ってしまうから、持っていながらに飢えている。
「今度は俺の買い物付き合ってくれよ」
「いいの?」
「郁が飽きないなら」
「飽きない、多分」
「怪しいなぁ」
「快斗のなら、大丈夫」
視線をいくつか彷徨わせた後、そう言って彼女が笑った。俺ばかり、俺だけ、特別、と思わせるのがうまいのか、本当にそう思っているのか。
まだ残っていた紅茶を飲み干して、水色とはかけ離れた、濃くなりすぎた紅茶をポットからカップにゆっくりと注ぐ。「苦くない?」という声にゆったりと首を振った俺は、もうすっかり冷たくなっているそのやけに濃く渋い香りの紅茶の上に、砂糖を二杯振りかける。沈殿した砂糖の粒が、空に瞬く星の様に照明の中で煌いていた。
まばたきをしてその小さな世界に、二人で飛び込めたなら。それならばどんなに素敵で楽なことだろうと思いながら沈殿した砂糖をかき混ぜると、スノードームかのように砂糖はただちらちらと舞って、溶けるそぶりすら見せやしない。