紀元前から続く窒息



 夏休み、かつ、自由研究という概念を喪失していたわたしは、呆然としながらもぎられたチケットと入口に広がる人の群れを眺めていた。
 本当に軽い気持ちで、自分が好きなキャラクターと、地層やら骨やらの展示がコラボレーションしたから、なんて聞いて、変化球のデートも稀にはいいだろうかと彼に声をかけたのがそもそもの問題だったのだ。
 コンビニで買っておいた前売りチケットを受け取った彼は「なんでこれ、興味ないだろ」と言った後にまじまじとチケットに印字された「コラボレーショングッズ付き入場券」という部分に視線を走らせて、納得と、ひどく面白そうな顔をして、軽々しく頷いたのが前回のデート。そりゃあ、普段なにかしらの展示会や美術館に行く際の目的が専らビッグジュエルである彼からしてみれば、付加価値が跳ね上がる可能性のある化石であるならばいざ知らず、価値があやふやな地層やら骨やらに魅力は感じないだろう。
 いつもよりラフな服装のくせに顔がいいせいで浮きまくっている黒羽の隣で、家族連れや、意外にもいるカップルの波に揉まれて呆然とした。思っていたよりも、数億倍くらい興味が湧かない。わたしですらそうなのだから、付き添いの形で連れてこられた黒羽はどうなのだろうと隣を見てみると、彼はただぼやっとした顔で、「すごいな」と呟いている。
 一人で来ればよかった、と心の底から後悔したけれど、誘ったのは自分だから、どうにも出口でグッズだけ引き換えて車に戻ろうとも言いにくい。黒羽がそれを望んでいることも分かっているのに、一番いいことのはずなのに、キャラクター目当てで来たというなんとも薄っぺらい目的のせいで何も見ることなくこの展示会場を出ることはどうにも憚られてしまう。
 ガラスケースに張り付いて微動だにしない子どもに、学芸員らしき人が「触らないでください」と声をかけている。「フラッシュ撮影禁止」や、「論文作成中の物の為撮影はご遠慮ください」なんて張り紙がはってある骨たち。

って、ほんっとにこういうの好きだよなぁ」
「え、骨?」
「なんか、自分から面倒事に突っ込むやつ」
「……はい」
「腕、掴んで」

 黒羽が右腕をぐっと差し出して、わたしは彼の茎状突起を避けるように手首の少し上を掴む。
 ふらふらとガラスケースを少し遠くから見て、少し物珍しいものの名前を黒羽と呟き合った。そのたびに、彼がいかに身長が高く、賑やかなところではここまで屈まないといけないのか、と驚かされる。わざわざこんな風に顔を寄せ合って話すタイミングなんて、付き合ってから多分初めてだろう。くっついて話していてもすぐに並んだ骨を見ているだけだから、見終わってはすぐに人波に流されてしまう。
 ふっ、と酸素濃度が一気に濃くなったのと同時に、開けた場所に出ていることに気付く。そこは○○展示会、という背景とともに顔に当てるパネルやボードを持って写真を撮るフォトスポットらしく、「ふうん」という気持ちでわたしは写真を撮りあう女の子たちを眺めながら通過していった。

「なー、これ、しねえの」
「しないよ、」
「なんで、顔隠れるだろ、写真映り悪くても半目でもオッケー」
「……喧嘩売ってるでしょ」
「いーじゃん、撮ろ」

 ニコニコとなぜか上機嫌な黒羽は、ナントカサウルスの骨の顔の部分をかたどったパネルをさっさと二つかっさらって来て、ぽっかりと空いていた撮影スペースでどうすべきか考えている女の子二人組に軽く話しかけて携帯を渡す。当たり前のように頬を赤らめながらその女の子二人組は携帯を受け取って、ナントカサウルスの骨のパネルを顔に当てたまま待機している女の横に彼が並んだことに、がっかりなのか残念なのか、とにかく複雑な表情を見せる。それでも、はいいきまーす、と、縦横一枚づつ写真を撮ってくれた女の子二人には感謝しかない。いや、別に撮りたくなかったのに撮らされてるし、なるべく顔を見られないようにさっとパネルをもとの箱に納めて歩き出す。「ありがとなー」とひらひら手を振ってから、わたしの隣に並んだ黒羽が写真を見せてきた。棒立ちで、パネルを顔に当てている身長差のある男女二人の写真。

「な、見て、」
「ひっど、誰だかわかんないし」
「最高だな、これ」

 いつものように揶揄いを含んだ嗤いを浮かべるかと思えば、なぜか自慢げに黒羽は呟いて、速攻わたしの携帯にメールで送りつけてくる。
 写真スポットを抜けて、地層のブースに入った後は一瞬だった。人混みだったわけではないけれど、殆ど興味がない上に昔授業で習った記憶を掘り返すようで、酷く億劫になったのだ。そこに関しては黒羽も一緒らしく、いつの間にか二人腕を組んだまま、グッズ売り場という最終地点に立っていた。
 グッズ引換チケットと展示会限定のアクリルキーホルダーをレジに持ち込んだわたしを、黒羽はレジの列に引かれた線の向こうにあるガチャガチャを眺めながら待っている。なんだかもう見飽きてしまった骨やら地層やらがちょっとしゃれた雰囲気でデザインされたビニール袋を下げたわたしは、ガチャガチャを眺める黒羽に声をかけて会場を出た。
 会場の外はあり得ないほどの日照りで、直ぐに車に戻りたかった、けれど、思っていた以上に余ってしまった上にあまり楽しくもなかった時間を彼に提供してしまった罪悪感に言葉が淀んで、なにも出てこない。口火を切ったのは、予想外に明るい声の黒羽。

「……全然面白くなかったな!」
「否定できない」
「なー、だって見てみ、四十分も経ってねえよ」

 黒羽はなぜかニコニコとした笑みを絶やすことのないまま携帯の画面を見せてくる。いや、確かにそうだけど、と間抜けなビニール袋に入ったかわいらしいキャラクターのことを考えた。なんでそんなに嬉しそうに、面白くなかった、と笑うのか、大きな矛盾をむき出しにしてくる彼に対する言葉はストレートなものしか浮かばない。

「面白くないってわりにニコニコしてるじゃん」
「俺、に誘われても、こういうの行かないって思ってたけど、誘われたときに、すげえ行きたくなってさ」
「なんでよ」
「面白くないのと、それが悪いことかどうかは違うじゃんか」
「……難しいこと言うね」
「これから、何年も付き合っててあれすげえつまんなかったな、って思い出になるだろ、暑いし、人多いし、小難しいしって」
「そんなこと考えてたの」
「うん?まあ。……でも次は無しな」

 いつの間にか車の鍵を出してちゃらちゃらと指先で弄ぶ黒羽が、さっさとわたしの先を歩いていく。自分の足が長いことにもっと自覚を持って、一歩一歩歩いてほしい。歩きやすいヒールを選んできたはずだけれど、小走りで、転ばないように、と少し慎重になって、彼の腕を掴む。

「あとな、」
「うん」
「腕、こうやって掴むのとか、全然しなかっただろ」
「……あ、」
「そーいうこと」

 黒羽は満足げに、自慢げに、どや顔としか形容しようのない表情で、唇の端を上げた。
 今度は当然のことのようにわたしの歩幅に合わせて歩き出す黒羽の腕を離すタイミングも掴めないまま、わたしは彼の隣を歩く。日差しに目を細める黒羽の横顔、耳朶つけている三日月のような形のピアスがきらりと光る。
 もしかして、全部全部思惑通りだったのかもしれない。
 この後は俺決めていいか?、とわたしをちらりと見た後、また視線を道のどこかに投げた黒羽の声に、わたしは頷いた。とりあえず車へ戻る、というのは二人の総意で、パーキングエリアまで颯爽と歩く黒羽に、「違う。こっち」と反対側にあるPの看板を指差しながら腕を引っ張って引き留める。黒羽は足を止めて、わたしが指している看板をじっと見つめた。
 それから、「、連れてって」指先を絡めて、言葉を言葉として単純に響くよう、きちんとした声で告げた黒羽に、抵抗も否定もなく、ただ従順に頷くことしか出来なかったのは先程の密集地帯にいたせいなのだろうか。
 彼の指先にはまった指輪の感覚をじんわりと確かめながら、わたしは一歩一歩、車に向かって歩いていく。黒羽はきっとわたしに引っ張られながら、次に向かう場所を考えているのだろうか。
 先程彼から送られてきた二人でナントカサウルスの骨のパネルに顔を当てている、酷く間抜けな写真を思い出して、今更、撮ってよかった、と、そして、撮りたいと言った黒羽の言葉の意味が分かった気がした。