夜明けのシンデレラ



 誕生日の朝は雨だった。
 雨音は嫌いじゃない。雨音だけのやけに広く感じるベッドの上で叩きつけるような冬雨に起こされたわたしは、ぬくもりの感じない枕をぎゅっと抱きしめた。鼻を埋めると奥のほうから微かに柑橘の香りがする。久々に香るにおいだ。胸いっぱいに吸い込んでから隣の定位置に戻して勢いよく起きる。少し期待はしていたけど、やっぱり隣は空だった。ぬくもりがなく、シーツの冷たさが指先から伝染していく。充電完了。
 顔を洗って着替えてのルーチンワークを終え携帯を触ると、友人や両親、仕事仲間からのお祝いメッセージが雪崩れ込んでくる。誰かに祝われたその時が、誕生日だと実感できるとわたしは思う。年齢が上がるにつれ誕生日というのもに特別感は薄れてきたけれど、無機質な字面だとしても祝いの言葉たちは素直に嬉しい。無論、直接会って祝われるのが一番嬉しいけれど、大人になった今は祝いの言葉を打つたびにわたしのことを思い出してくれている、それだけで嬉しいというものだ。
 だから、全てのメッセージに返信を終えた今、わたしは快斗からなにも届いていないことに少なからず落胆している。トーク画面は相変わらず一昨日の【二、三日帰れないかもしれない】のままだ。一度ホーム画面に戻って新しく開いてもそれは変わらない。

「今日も帰ってこれなさそうだなぁ」

 誕生日は隣で祝ってくれなきゃ嫌だなんて、わがままとも甘えともとれる言葉は言ったりなんてしない。あの人は、すごく優しい人だから、言ってしまえばきっと無理をしてでもわたしも願いを叶えてくれる。そんな優しさに惹かれたのも事実だけれども、あの人にわたしという重荷を背負わせたくない。同棲を始めるときにそう決めた。

「こんな暗い顔してたらダメダメ!もしかしたら今日帰ってくるかもしれないし、そしたら心配かけちゃう」

 シンとするリビングに大きく響かせて、気合を入れるために頭を振る。今日は昼から友人に祝ってもらうんだ。それに案外撮影が順調に進み早く帰ってくるかもしれない。くよくよしている時間はないと冷たい頬を叩いて、ありがたいことに増える花束のスペースを新しく作りに取り掛かる。
 主演舞台が終わり色とりどりの花を抱えて帰ってきた快斗。スタッフの人が枯らさないよう手入れしてくれてたんだ、とにこにこしながら帰ってきた姿がなんとも愛おしくて、シックなリビングに合わせるためいそいそとドライフラワーを仕込んだものだ。リビングの白い壁の一角に麻縄で吊るして、ベランダの窓を少し開けておくと二週間程度でできるドライフラワー。最初はわたしの独断で始めたものだったけれど、真夜中の月明かりに照らされたそれを見ながらお酒を飲む快斗が、いい趣味だな、そう言った。ただその一言だけで満たされた気になって、今でも飽きず誕生日に一人で花をいじっている。隣に新しく飾るため、友人から花をもらうかもしれないから少し長めに麻縄を切っておく。飾りつけ用にクリップといくつかリボンをくくっておいてひと段落。日付が変わっててもいいから、快斗がお家に帰ってきますように。



「ありがとうございます、お疲れ様です」

 後部座席にスモークの貼った黒いバンから、帽子を目深にかぶった男が降りてくる。大きな紙袋とブランド物のボストンバッグを両手に車の中の人物に挨拶した男は、車が地下から上がるのをご丁寧に見送ると、弾かれたが如くマンション内に続く階段を、脇のエスカレーターなんかに目もくれず駆け上がっていく。低いヒールのあるブーツを乱暴にガンガン踏み鳴らし、痩身に似合わない体力と根性で一歩も止まらず上がる。その足が止まったのは、階数が五を越えてからだ。

「ただいま……って、やっぱり起きてないよな」

 玄関に入るなりぱさりと帽子を落とした男、黒羽快斗はうっすらと隈の透ける目元を歪ませた。そしてがくりと肩を落とす。腕の時計は深夜三時を過ぎていて、日付は予定していたものを越えている。人がもう一人いるはずの我が家は当然真っ暗で、手探りで付けた青白いライトがやけに眩しい。なんとなく、ここから先の敷居を踏んではいけない気がした。そしてその気とは、罪悪感なのだときちんと理解していた。
 昨日は、快斗の恋人であるの誕生日であった。何も付き合って初めての誕生日というわけではないけれども、同棲をしてから初めての誕生日ではあった。女性は元来記念日というものが好きであるし、それはも例外ではなく、口には出さないものの動きや表情の機微で快斗は感じていた。
 三和土でうじうじしても解決にならないから、あまり腑に落ちないとでも言いたげな顔で快斗は廊下を進む。特に汚れてもない衣服が詰まったボストンバッグは進む途中に脱衣所の前の扉に捨て置いて、ぶつけないよう一応慎重に運んできた大きな紙袋は持ったままリビングに入る。もちろんリビングも電気はついていない。

「さすがに風邪ひくよ」

 お目当ての恋人の姿は、彼女がお気に入りだと微笑んだソファの上にあった。化粧を落とした幼い寝顔。伏せられたまつげはふるりとも動かないで、深い深い夢の国に旅立ってることが見て取れる。それでも起こさないよう、ゆっくりソファ前に膝をついた快斗はまじまじ寝顔を見つめる。最近は寝顔ばかり見ている気がすると、理解していた罪悪感が快斗を刺激していく。恋人らしいことのひとつやふたつ、満足にできているとは思えない。互いに仕事があるから、それ以上に自身が仕事に傾注しているから、を構ってあげられていない。自覚はあった。
 くしゃりと、艶やかな髪を撫で梳く。あのピンク色のパッケージの、やけに甘い匂いのシャンプーだ。その匂いを吸って快斗は言葉を吐く。

「誕生日もまともに祝ってやれない甲斐性なしで、なにもしてあげられないのに、手放すこともできないんだ」

 手放してやることが、未来のある彼女にとって一番いいことだと知ってはいた。とても簡単なことが、快斗はいつまでたってもできなかった。花を愛でる姿も得意げに料理をつくる後ろ姿も、無垢に瞼を伏せる姿も手放したくなくて、愛おしかった。



 目が覚めたとき、身体が重かった。まだ不明瞭な頭では、ぼんやりとその事実だけを掴む。風邪を引いてだるいとかそういうものではなく、なにかが自分に乗っている重さだ。まだ霞がかる視界を数回瞬きをしてははっきりとしてきた遮光カーテンを眺める。二度寝したいな、と覚醒しきっていない頭に過ると、もぞり、お腹辺りにある重みが動く。

「……快斗?」

 少し骨張っていて切り揃えられた指先、よりも濃い色の肌、そして後ろから香る香水。なにもかもが、この重みを、待ち構えていた快斗だと示していた。

「快斗、帰ってきてくれたんだ」

 さっきまでぼんやりとしていた頭が、重みの正体に気がついた途端に晴れる。自然と広角が上がるのが手に取るようにわかって、緩む頬のまま目線を下げた。腹に回されている腕に手を添えると、昨日から欲しかった温もりが素肌を通して伝わって、をあつくした。
 腕を視線で辿って、身体の向きを変えていく。そうすればほら、目の前に焦がれていた快斗の姿が目に入る。数日ぶりに見た恋人の顔は眠りについているにも関わらず疲れて見えて、その顔に手を伸ばす。少しだけ冷たい顔。けれどの手の温度が溶けて染みていく。

「おかえりなさい」

 届きはしない出迎えの声をは投げ掛ける。おかえりと、言えるこの立場がひどく安心して手放したくないのだ。迎えるだけではない。見送る言葉も愛の言葉もなにもかも、快斗に投げ掛けるのがわたしだけだと思いたくて口にする。この立場を手放したくないし、わたしを手放さないでほしい。そう込めて、もう一度口を開く。

「好きよ、快斗。来年は隣で祝ってね」



 午前四時頃、聞こえやしない彼女に懺悔の言葉を投げ掛けて幾度か頬を撫でてから、快斗は用意していた大きな紙袋に手をかけた。待っていてくれというようにの額に軽いキスをして、彼女へのプレゼントを紙袋から出す。
 まずは、花束。花は飽きるほど壁にあるから、きっとは笑うかもしれない。本当はが昔自分にくれたように誕生花をセレクトしてやりたかったけれど、生憎と花束には向かないらしく、そこをなんとかと花屋でねだってみたものの最終的に折れる他なかった。
 次に、快斗の手にすっぽり収まる化粧箱。独特の薄いブルーリボンが絡んだその箱の中には、の細い指にちょうど嵌まるであろうピンキーリングが鎮座している。白い指に合うローズゴールドが細くなった中央に、ラウンドブリリアンカットのダイアモンドが抱かれるリング。いつの日にか左手の薬指に本命を嵌めるのだから、小指に着けるそれは華奢でシンプルなものを選んだ。
 そして最後は、片手ずつ持てる化粧箱二つ。一つ目、大きな正方形の箱はアズールブルーがメインのチュールドレス。二つ目、長方形の箱はヌードカラーのパンプス。紙袋からひとつずつテーブルに置いていく快斗の表情は、無自覚ながら柔らかい。昼過ぎに配達を頼んでいる、クリーニング済みのディナースーツを思い出しているのだ。
 を起こさないよう、そっと彼女の背と膝裏に腕を回し身体を自分に寄りかからせる。寝室の扉を足で開けたことは、快斗以外誰も知らない。