PRAYER



 何も信仰する対象を持たない俺が、どうか、どうか神様、と願う瞬間がある。
 彼は黒いダブルベッドの中で胎児のように身体を丸めて、穏やかに寝入っていた。遮光カーテンを閉め切り照明をすっかり落とした寝室。俺が怪盗キッドとしての仕事で、先に寝ていてほしいとメールをした夜。この扉を開く前の数秒間、俺は密かに祈りを捧げる。
 神経質すぎる彼が俺の立てる物音で目覚めませんように。
 そうっと回したドアノブ、遠慮がちに作った隙間から身体を滑り込ませて、再び最小限の動きでもって扉を閉める。ここまでの動作で彼が目を覚まさなかった時、俺は心の中でガッツポーズを決めるのだ。

「かいと?おかえりぃ」

 彼の眠りは浅い。俺の入室過程で目を覚まさなければよいほうだ。一緒に住みはじめたころ、玄関の扉を開けた時点で目を覚ましてしまって、のそのそとリビングまで起き出してくることもあった。彼の病的なまでの繊細さが何に起因しているのかはわからない。ただ、彼にとってひどく生きにくいだろうこの世界において、俺だけはなんの障壁でもないものでありたいという願望に帰着した。彼を愛する俺である限り避けられない運命であったろう。
 今夜もやはり、彼に気づかれずにそっとベッドへもぐりこむことはかなわなかった。眠たげな瞼の向こうからわずかに光る目が、半月になってやさしくわらう。

「ただいま、さん。起こしちゃったな、ごめん」
「ええよべつに。おつかれさん。……明日、朝、はやいん?」
「ぜんぜんはやくないよ。さんも明日は夕方からだろ?」
「うん」
「ゆっくりしような、目覚ましかけないから」
「それはあかん、そんなん、快斗、あかんよ。起きたら日ぃ、沈んでたらどうすんの」

 くるくると色を変える目が好きだ。すこし声を尖らせた彼に従って、枕元の目覚まし時計、アラームは午後一時に設定した。どうせお互いにお腹がすいて、ずっとはやくに目が覚めてしまうだろう。
 彼はまん中で丸くしていた身体を左側へ寄せる。俺は右側にすべりこんだ。あたたかい。彼のぬくもりが居残りするシーツすらいとおしい。どちらかといえば華奢寄りで中背な俺と、どちらかといえば大柄な体躯のさん、ふたりが眠るには、このダブルベッドはすこしばかり窮屈だ。ニトリで家具を眺めていた彼がこの大きさがいいなんてわがままを言ったから。まあ仕方がないかと購入してしまったけれども、やはり。俺に背を向けた彼、近頃少し痩せたように思う背中を見つめる。

さん、ありがとう」

「なんなの急に」背中越し、くぐもった声が言う。

「眠っててくれて、ありがとう」

 脈略の無い言葉に、彼がはぁ?とすっとんきょうで間の抜けた声をあげたのは言うまでもない。俺のことを感じないでくれて、ありがとう。
 学生の傍らを怪盗キッドとして闇夜にいきる人生は世間一般的にいう穏やかで幸せな生活とは程遠い。特にこんな、いつ突然いなくなってもおかしくない環境で過ごす中で恋人をつくることはおろか結婚への躊躇いを覚えることも決して少なくない。それでも、さんが自分で選択して俺と寄り添ってくれているということが、ひどく尊いことのように思えた。そんな彼にとっての空気のようになりたい、だなんて、遠い遠い目標である。
 もう一度礼を述べて、そっと背中から腰に腕を回してゆるく抱きしめると、彼はくすぐったそうに肩を震わせて笑った。
 俺の腕はたしかに形を持って、たしかに彼を抱きしめている。たしかに、たしかにあたたかく、ふるえる鼓動を感じた。