※捏造過多

こゝろ



 飛び乗った最終バスに乗客は一人もいなかった。運転手に軽く会釈したあと狭い車内を進み、最後列から二列目の運転席から向かって左側に腰を下ろす。右隣に鞄を預け、椅子の背に体重を預けたところでバスは雨に濡れた路面を滑るようになめらかに走り出した。
 あたりはすっかり暗くなっていて、朝から降り続いている雨のせいでひどく視界が悪い。窓外の景色に目をやれば流れる街並みよりもあからさまに疲労を溜めこんだ自らの顔がはっきりと見えて、思わず苦笑が零れた。咳払いで誤魔化して、窓ガラスに映った自らの輪郭をそっとなぞるとひんやりとして冷たかった。どう見ても、これは恋人に会うための面構えではない。この白けた面を彼女に晒すわけにはいかないと控えめに口角を釣り上げてみるとなんとか見れた顔になったけれども、なんだか蝋人形のように見える。感情がない。最低だ。一人ごちて、瞼を下ろす。うすい窓ガラスに吸いつく雨の音が、情けないな、とでも言っているかのようだった。

 初めての恋人ができたのは大学二年生の頃で、それが彼女だった。家族でもなく友人でもない人間が自分を好きだと言うのは心地良かった。まるで経験のない恋愛初心者同士にしては互いに上手くやっていたと思う。尊重し合い、認め合い、譲り合い、愛し合っていたと、思う。けれども卒業を機に生活が大きく変わると次第にそれまで通りの付き合いを続けることが困難になって、互いの在り様は変化した。時間も余裕もなくなって、たまの休みに一緒に出掛けることがあっても上の空でいることが多くなった。後輩ができる頃には仕事がますます楽しくなって、いよいよ彼女のための時間はなくなった。会いたいね。耳にたこができるほどに聞いていた、彼女の可憐な口癖を最後に聞いたのがいつだったのか、思い出すことができない。極度の寂しがりで、一人で出掛けることを嫌う彼女が一度として寂しいだとか悲しいだとか嫌だとか愚痴を零して恋人を困らせることがないのは優しさでも遠慮でもないことは知っている。つよがりだ。それなのに、彼女が既に聞き飽きているであろう気休めを繰り返してやり過ごしている。ごめんね。また今度。ちゃんと好きだよ。どれもこれも免罪符には程遠い。
 彼女は可憐だ。すっきりとした鼻筋も、華奢な撫で肩も、下瞼を持ち上げる日当の猫のような笑い方も、長い髪を右耳に掛けて撫でつける癖も。彼女の可憐をひとつひとつ思い出して数えるたびに、真黒な窓ガラスに映った男との不釣り合いに笑ってしまう。情報化社会に於ける文明の利器の代表格である携帯電話の利便性は考えもので、保身のためにと登録した記念日が近づくと律儀にも数日前には通知が届く。来週は彼女の誕生日です。三日後は告白をした記念日です。そんな具合に。彼女は滅多に機嫌を損ねることはないけれど、そんなときばかり上手に立ち回る卑しい手際の良さに辟易してしまう。聡明な彼女は指摘することこそないけれども、きっと気付いているに違いない。恋人のつよがりに甘えてばかりいる情けない男の正体に。

 じきに彼女の住む街へと辿り着くバスは、赤信号でゆるやかに停車した。バスの車内は静かだった。せせらぎのようなかすかな雨音に、ウインカーの音がチカチカと混じる。いくつものバス停を過ぎたけれども相変わらず乗客の姿はなく、運転手の左肘が唯一目に入る人間の姿だ。孤独とは、こういう状態を指すのかもしれない。彼女の元へと辿り着くバスに乗っているのに、どうしようもなく独りでいるような気になってしまう。不安にも恐怖感にも似たこういう不足感は昔から、独りでバスに乗っている時だけでなく、定期的に、律儀に襲ってくる。裸で抱き合って迎える朝でも場違いな孤独は律儀にやってきて、無遠慮にベッドの中に入り込み、日常の憂鬱が充満した世界へとこの身体を押し出すのだ。そういうふうに孤独は淡々と襲ってくるのだから、付き合いは割と心得た心算でいるけれども、彼女はそれをどう捉えているのだろうか。彼女もまた把握しているはずだ。自分と恋人との間に割って入り、彼女の生活にもまた不可解な影を落としている、目には見えない邪魔者を。

 かつて、もうずっと昔のことのように思える学生の頃、よく二人で出掛けた公園をバスは横切る。通り過ぎたバス停に彼女によく似た女性が立っていたような気がして左肩を引いて確かめてみるけれども、びたびたと窓ガラスを叩く雨が彼女の残像を掻き消した。
 どこかでなにかを間違えたのだろうか。
 もっと、彼女のためにすべてを割いて、彼女のために生きるべきだったのだろうか。
 彼女と顔を合わせていない月日を胸のうちで数えてぞっとした。窓ガラスに映る顔は相変わらず冴えない。気の利いた言い訳のひとつもできないこの心は、彼女と顔を合わせることを、恐ろしい、と思っているらしかった。

 公園を過ぎて暫く経ち、最終バスは目的地へと辿り着く。錆びた青い屋根を持つ見慣れたバス停になめらかに滑り込み停車したバスの扉が開く。運転手に会釈をしながらバスを降り、設置されたベンチの背に傘を立てかけた。強くもなく、弱くもなく、一定の強度と一定の速度で雨はひたひたと降っている。屋根のあるバス停で助かった。去って行くバスを背に、鞄の中から携帯電話を取り出して、彼女にそろそろ家に着くことを伝えようとした、そのときだった。

「聖くん」

 彼女の声がして、はっとしてあたりを見回すと、お気に入りだと言っていた紺色のパンプスをぐっしょりと濡らした彼女が新緑色の傘を差して立っていた。視線を合わせた彼女は笑っていた。すべての感情を飲み込んだ、澄んだ目をしたきれいな笑みだ。全く普段と変わらない。恋人への愛情が、彼女自身の優しさが、彼女の口角を無理に釣り上げている気がして目を逸らしてしまいそうになった。けれど、それを暴いて申告して彼女のつよがりが砕けてしまうことがなによりも恐ろしかった。

ちゃん」

 おそるおそる彼女の名前を呼ぶと、体内をざわりざわりと音を立てて巡る得体の知れない感情に気付いて息が止まりそうになった。鼓動が逸る。この頃、自分はひどく醜悪ないきものではないかと思うことがある。可憐で聡明な彼女が自分を選んだ事実に甘えて、ひどいことをしているからだ。彼女は誰よりも幸せになるべき人だと思っているのに、自らの手で彼女の幸福を削いでいる。そのくせ他の誰かが彼女の手を取ることは許せない。彼女が無理に口角を釣り上げずとも笑顔を見せる世界は他にいくらあるだろう。

「わざわざ迎えに来てくれたの?雨降ってるし、家で待ってたら」
「だって、聖くんに会うの久しぶりだし」

 性急に言葉を遮る彼女の言い分に胸を刺された。約束を先延ばしにしてばかりいたことを責められているのかと目を伏せた矢先、屋根の下へと入った彼女は手際良く傘を畳み、そしてそれを案内板へと立て掛けると両手を広げて恋人の身体を抱きしめた。

「早く会いたくて、来ちゃったよ」

 雨はひたひたと降っていた。
 そこは住宅街の中にぽつんと設置されたバス停で、車通りがなければ人の気配もまるでない。雨の匂いに混じるのは、たぶん、彼女が生まれ持った肌の匂いで、ネクタイに額を押しつけて自身の身体をぎゅっと抱きしめている恋人の旋毛を見下ろして、不覚にも泣きたくなってしまった。
 こんなとき、普段なら間違いなく孤独に襲われてしまうというのに、身構えても待てど暮らせど孤独は一向にやってこない。当然だ。彼女に出会って以来、この身体が孤独に襲われたことなんてただの一度もなかったのだ。単純なことを難しくしていた。彼女のためにすべてを割いてだとか、それはそれで素晴らしい愛のかたちかもしれないけれど、そういう大それたことでなくても、彼女の名前を呼ぶたびに身体の内側をそわそわと這うものを安直に愛しさと呼んで、消耗していく日々の中で彼女からの告白を待ってばかりいないで彼女を抱きしめるために、その肌に触れるためにバスに飛び乗っていれば良かったのだ。もっと早く。
 左手の携帯電話をコートのポケットの中へと押し込んで、衝動に任せて力を込めてしまわないようにと細心の注意を払いながら彼女の身体を抱きしめるといよいよ抑えが効かなくなった。泣きそうだ。

「ごめん」
「いいよ、これくらい」

 彼女は恋人の謝罪などとうに聞き慣れているであろうけれどもそう告げずにはいらない。何に対して謝っているのか、何に対して謝りたいのか、訊ねもしないで彼女は容易く恋人を許す。身体の内側から溢れ出る愛しさをそれと気付かず孤独と名付けて恐れる心が涙声で告白を繰り返す。だからもう一度、心のうちで謝罪を述べた。こんなにも想っているのに、世界の誰よりも幸せであってほしいと願っているのに、そんなきみに相応しい男にいつまでたってもなれなくて、ごめん。それでもきみを愛することをやめられなくて、ごめん。

 通り過ぎたバス停に立っていた彼女によく似た背格好の女はやはり彼女だったのだろうか。つよがりを重ねることもなく、お気に入りの靴を濡らすこともなく、無理に笑う必要もない、すこやかな日々を、やすらかに過ごしている、どこか、違う世界に住む彼女。優秀な恋人を持って、愛されて、会いたいね、と毎晩のように電話口で甘えた声で言うのだ。

「僕もちゃんに会いたかったよ」
「ほんとう?」
「本当」

 華奢な撫で肩を支えて額にキスをすると、長い髪を右耳に掛けて撫でつけながら彼女は陽だまりの猫のように笑った。
 もう、違う世界の夢は見ない。ここではないパラレルワールドのどこかの彼女は、それこそ世界の誰より幸せで、かなしみもさみしさも縁遠く、日々を健やかに過ごすことのできる世界もきっとあるだろう。
 けれども、彼女とここで生きていたい。
 この世界で、彼女の身体を正しく抱き締めることができる、ただひとつの身体はこの身体に違いない。