「そんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
頬に当たるフローリングの床は、初夏の暑さで火照った肌には心地よい冷たさだった。掃除の行き届いた部屋は、干している洗濯物の所為だろう、爽やかなせっけんの香りがする。ふと耳に入った穏やかな声で、あの人が帰ってきたこと、そして自分がこんな場所で眠ってしまっていたことに気がついた。ゆっくり目を開けて顔を傾ければ、ひどく優しい瞳がわたしを見下ろしている。
「……ふくしろくん、?」
「ふふ、寝ぼけてる?」
「……おかえりなさい」
「うん、ただいま」
羽織っていたジャケットを皺がつかないよう丁寧にハンガーにかけた手は、そのままわたしの頭をふわりと撫でる。それだけでわたしはひどく安心して、またすぐにでも眠ってしまいそうになるけれど、夕飯の支度をしていないことを思い出してすぐに立ち上がった。
「ごめん、いまからご飯つくる」
「僕やろうか、疲れてるでしょ」
「ううん。大丈夫」
「そう?じゃあお願いします」
こうして、ひとりにしては大きなソファでじいっと彼の帰りを待ったり、キッチンに立って料理を作ったり、一緒にご飯を食べたり、眠ったり。それはわたしが「特別」だからだと、何度も自分に言い聞かせた。そんなことを考えている自分が一番惨めなのだということには気づかないふりをして。
「今日はねえ、冷やし中華」
「もうそんな季節か」
「今日暑かったからねえ」
「僕いないときも冷房使っていいからね?」
「それはまだ早いかなあー」
きゅうりやハムを細切りにしながら、彼の仕事の話に相づちを打つ。仕事の、というか、居合の方で知り合った彼らの話をしているときの福城くんは年相応の顔をしていてとびきり楽しそうで、わたしはその顔がいちばん好きだ。茹で上がった麺と切り終わった野菜を盛り付けて、今日もお疲れ様でした、といつもと同じ台詞を投げかけた。福城くんは今日も美味しいと笑いながらわたしの料理を平らげて、わたしはそれに満足したふりをする。あの人がいない、それが、わたしが彼のそばにいれる理由だ。
「ねえ、いつものしてもいい?」
「……ん、いいよ」
疲れたから今日は寝る、と言ってベッドに潜り込んだ福城くんに手を引かれて、わたしも隣に横になった。甘ったるい声、すうと息を吸う音、シーツの擦れる音、わたしの肩に回る腕、首筋に触れる髪の毛の擽ったい感触。その全てが、傷や汚れひとつない真っ白い壁に吸い込まれていく。わたしの首筋に鼻と唇を押し付けて、安心したように眠る彼の熱に包まれながら、ゆっくりと意識を手放していく。同じ部屋の、同じベッドで、体温を共有して、それ以上も、それ以下もなくて。そんな熱くて、あまくて、じれったくなるような彼の愛に、わたしはいつも苦しくて泣きそうになる。
「ひじり、」
わたしの背中に腕を回したまますっかり寝息を立てている福城くんのさらさらとした髪の毛に指を通して、あの人が彼を呼ぶときに使っていた呼び方で呼んでみた。 聞こえていないと分かっていて、そう呼んだ。自分で言っておきながら、どくどくと全身を波打つ心臓の音を感じている。ひじり、そう呼んでみたら、意外としっくりきて驚いた。何度も頭の中で練習していたからだろうか。でもやっぱり面と向かって呼ぶことはずっとできないんだろうな、そんな風に考えていると、薄い瞼の隙間から覗いた瞳が、ゆっくりとわたしを写した。
「……もう一回」
「っ、え?」
「呼んでよ、聖って」
「……寝てるかと思った」
「そんな声で呼ばれたら起きるでしょ、」
どんな声、と聞こうとした唇は、彼によって塞がれてしまった。薄いTシャツを一枚隔てただけの彼の体温がわたしの身体に流れ込んで、このまま、一生染み込んでしまえばいいのにと子どもみたいな事を考えた。徐々に深くなっていくキス、首元を撫でる指先の熱、それから薄く開かれた瞼の奥から射抜くように見つめる瞳も、確かに愛という感情を孕んでいるように思える。勘違いしてはいけないと思うわたしと、どこかで自分が特別であると信じて疑わないわたし。愛は消えない呪いだ。いつまでも過去を追い続ける福城くんにとっても、そんな彼にわたしだけを見てほしいなんて言えないわたしにとっても。
「ひじり、」
もう一回、耳元で響く福城くんの声に、返事をする代わりに何度も彼の名前を呼ぶ。わたしの肩口で熱い息を漏らす福城くんは、もしかしたら泣いてるのかもしれない。先程触れた唇の熱を必死に辿って、彼がまたこの家に帰ってくる明日に想いを馳せる。明日もまた、同じ日々が続くことを、わたしは願っている。
「郁」
「、どうしました?」
「……どこにもいかないで」
離れられないことを知っているくせに、少し掠れた声でそんなことを言う彼はやっぱりずるい。それはこっちの台詞だと言えないわたしは、背中に回した腕に少しだけ力を込めた。