僕には過去と未来が見える。見える、と言ったら語弊があるだろうか。それらに触れたり操作したりすることはできない。ただ、見えるのだ。その人の皮膚から透けて見える本質、目の奥に潜んだ感情、指先から零れる過去の匂い、そのつま先が向いている未来の幻。これは超能力や魔法の類ではない。まやかしの力だとこれを疑うつもりもない。手口はどちらかというと手品に似ている。けれどこれを口にすると恐らく懐疑の目に晒されるだろうから、この力は決して人には明かさない。ただひとりを除いては。
「ねえ、見える?」
郁は目をきらきらさせて僕の目をじっと見つめる。瑠璃色の瞳に映った男の間抜け顔に思わず苦笑が漏れる。彼女は中学の同級生で、もう十年来の友人で、僕の特殊能力についてを知る唯一の人だ。つい先週「すごくかっこよくて非の打ちどころがない、わたしにはもったいない恋人」に結婚の申し込みをされたという。いつも待ち合わせに使う喫茶店に着くなり、先に席に着いていた僕の元に息を切らして駆け寄って来た彼女は言った。わたしの未来を見てほしいの。
彼女が僕の能力について知った経緯はさておいて、彼女は滅多に僕の力を宛てにしない。もう長い付き合いになるけれども、彼女が僕を頼った記憶はたったの二回だ。高校受験の時。大学受験の時。それはどちらも冬の寒い朝のことで、彼女が差し出した手をそっと握りしめると指先はひんやりと冷えていて、それとは裏腹に掌はほんのりと温かかった。彼女はたいへんな努力家で、そしてとても真面目な女の子だった。授業中に居眠りをしているところなんて見たことがないし、教科書は綺麗だったけれど端のほうには何度も何度も頁を捲ったであろう痕がついていて、どの教科のノートにもきれいな字で板書を逃さず書き留めていた。学期ごとに行われる試験の度に学年順位が少しずつ上がっていることも、勉強しても勉強しても不安で、受験日が近付くにつれて少しずつ睡眠時間が短くなっていることも知っていた。桜が咲くよ、と告げると彼女は今にも泣き出しそうな顔をして、僕の掌をぎゅっと力強く握り返してありがとうと言った。郁は僕の力の精度を信じ切っている。瞼の裏に郁の未来が見えたのは確かだけれど、それは彼女の努力が導いた結果だ。僕の力は関係ない。それでも、彼女は僕の力を信じ切っている。超能力みたいなものより確かに、占いみたいなものより遥かに。
未来を見て欲しいと言う彼女の差し出す手を取って、じっと彼女の瞳を見つめる。無垢な瞳だ。僕を善良な友人だと信じ切っている彼女の目を真直ぐ見ていることに耐え兼ねて視線を下げれば、彼女が注文したキャラメルホワイトモカの白いクリームの渦が熱にどろりと溶けていく様子が目に入ってなんだか寂しくなってしまった。こんなふうに、彼女の心が溶けだす先は何故僕ではなかったのだろうか。
「郁」
「はい」
「その彼と一回、そうだな、半年くらい前、結構大きな喧嘩をしたでしょう」
「えっ、やっぱりわかるの?」
「わかるよ」
なんてね。目を丸くする彼女に胸の内で種明かしをする。本当は、半年程前に会った時の彼女があからさまに落ち込んでいて、何度も何度も左手の小指を飾るピンキーリングを撫でるものだからなんとなくその要因に気付いていただけだ。そうして、次に会った時は普段通りの彼女に戻っていたものだから、そこから簡単な推測をしただけ。超能力でも魔法でもなんでもない。ただ、彼女を見ていただけだ。
郁が言う「すごくかっこよくて非の打ちどころがない、わたしにはもったいない恋人」は、多分彼女の言う通りの男なのだろう。真面目で奇特な彼女の機能を著しく低下させることも、それを普段通りに修正することも容易い人だ。彼からの猛烈なアタックを受けて付き合い始めて三年半。突然結婚を申し込まれて戸惑う気持ちも分かるけれど、きっと、心配することはなにもない。
「僕はその、郁の彼氏には会ったことないけど、いい人だと思うよ」
「ふふ。うん、いいひとなの。とても」
「だから心配ないと思うよ。なにも。大丈夫、郁は幸せになる」
ほんのりと頬を染めた彼女は心底嬉しそうに口角を釣り上げて、瞳を細めて微笑んでありがとうと言った。あまりに可憐な仕草に早速後悔が頭を擡げるけれども、なにを今更と自らを諌めて微笑みを返す。慣れたものだ。
彼女がずっと好きだった。真直ぐに伸びた背筋も、長い髪の隙間から覗く耳の形も、僕の力を信じ切って輝く瞳も、なにもかも。
彼女の両手をそっと握る。あの頃と同じで指先はひんやり冷たくて、掌はほんのりと温かい。瞬きをするたびに瞼の裏に彼女の未来がちらつく。安らかな未来だ。彼女にはあらゆる不幸が寄りつかない。あらゆる不運が彼女を嫌う。「すごくかっこよくて非の打ちどころがない、わたしにはもったいない恋人」が、どういう声音で彼女の名前を呼んで、どういう手付きで彼女の頬を撫で、どういう目付きで彼女と対峙しているのか知る術はない。けれど、彼女を見れば分かる。彼が、出会うべくして彼女と出会ったことが。
「郁はすごく運が良いみたいだ」
「そうなの?」
「何かがいつも郁のことを守ってる。その何かがなんなのか、分かるでしょ?」
きょとん、とした彼女が天井を見た。高い天井ではシーリングファンがくるくると回っている。一定の速度で回り続けるそれを暫く見ていた彼女は急に僕を見て、重大な事実に気付いたかのような顔をして笑って見せた。
「聖が守ってくれてたの?」
焦った。
涙が出るかと思ったのだ。
下瞼が熱くなって、鼻先がじんとした。ゆっくりと細い息を吐いて、吸って、浅い呼吸を繰り返しているうちに彼女は照れくさそうに笑ってありがとうと言った。幸せになるよ、とも。
ありがとう。それは僕が彼女に言いたいことだった。僕には秘密がある。それは過去と未来が見えるということではない。その事実を彼女しか知らないということでもない。それは超能力でも、まして魔法と呼べる類のものでもなく、どちらかというと手品の手法に近いことでもない。僕には確かに過去と未来が見えるけれども、彼女の過去と未来しか見えないのだ。誰しもの過去と未来が見えるわけでは決してない。彼女のそれしか見えない。皮膚から透けて見える本質、目の奥に潜んだ感情、指先から零れる過去の匂い、そのつま先が向いている未来の幻。彼女のそれしか興味がない。彼女をずっと見ていた。彼女がずっと好きだった。真直ぐに伸びた背筋も、長い髪の隙間から覗く耳の形も、僕の力を信じ切って輝く瞳も、なにもかも。
幸せになるよ。こんな告白は聞きたくなかった。
けれど、彼女の幸福を願うだけの甲斐性ならこの四畳半の心にも備わっている。
「……郁は幸せになるよ。見えるから」
「うん。ねえ、わたしにも見えるよ」
「何が?」
「聖が幸せになる未来」
彼女は天使のような笑みで悪魔のようなひどい予言をする。うん、とだけ返事をして高い天井を見上げればシーリングファンがくるくると一定の速度で回っていた。
目を閉じて、深く息を吸って、ほんの少しだけこの恋を呪う。