担当していた患者が死んだ。
自らが選んだものなどなにひとつない用意された病室で、見慣れない天井を寝心地の悪いベッドから見上げて、誰に看取られることもなく彼は静かに息を引き取った。高齢で、ありとあらゆる身体機能が弱っていて、手術の日程は決まっていたけれど入院したときには家族にそれなりの覚悟を求めなくてはならない状態で、誰ひとりとして僕を責めることはなかったけれども暫く上手く呼吸ができなくて、トイレに籠って暫く泣いた。いっそ罵って欲しかったのかもしれない。全ての命を救うのだと驕っていたこの掌を。
「聖くん、なんかあったの」
「んー……なにもー……」
「そっかぁ、なにもないのかぁ」
台所に立って食器を洗っている彼女に後ろからまとわりついて数分、なにも言わなかった彼女がついに口を開いた。けれども僕の気の無い返事を真に受けたのか彼女は妙に納得したかのような声を出してそれきりなにも言わなくなった。ざあざあと水の流れる音が響いて、時折排水溝が大袈裟な音を立てて洗剤の泡を飲み込んでいく。しつこい油汚れも一洗いですっきり、なんて科学の進歩が生んだ洗剤のようにこころに貼りついた憂鬱も一洗いで綺麗になかったことにしてしまえる洗剤は開発されないものか。
彼女の身体を抱いていると、この掌を正しく使えているような気になる。普段の自分が身体の使い道を誤っていると嘆く気はないけれども、これで良いのかと自らを省みてしまうことは多々ある。医師として日々忙しなく働いている母親の背中を見て育ったせいか幼い頃から自分も医者になるのだろうとなんとなく思っていたし、尊敬する母親が戦場で子ども達を守ろうとして爆撃によって亡くなってしまったことで一層疑いはなくなった。かつて母が通っていた同じ大学の医学部に進学して、国家試験に合格して、高校から付き合っている彼女と同棲を始めて、順風満帆そのものの生活を手に入れたと思っていた。けれど大学病院で研修医として勤務することになって以来数ヶ月、日に日に衰弱していく身体と心は最早手に負えない。死のにおいに満ちた場所で持ち前の穏健さはすっかり削ぎ落されてしまっていた。今やぼろぼろになって家に帰っても、ぼろぼろになっているところを彼女に悟られまいと振る舞って、けれどそれとは矛盾してなんとかあるべき形に収まって自らの正当性を確かめようと彼女の身体を抱くだけ。幼い頃に思い描いていたように重ねる歳月を疑問に思ったことなどなかったけれど、もしかしたら人には何事も向き不向きがあるように僕には向いていなかったのかもしれない。人にはどうしたって寿命というものがあって、死ぬことを悪いことだとは思わないけれど、受け入れることができるかと言えば話は別だ。
「こんなのじゃなかったのに」
「なに?」
「こんなのになりたかったわけじゃないのに」
全ての命を救うのだと、驕りに満ちたこの掌を真実に変える力が欲しかった。正しい使い道を心得ているこの手で正しいことだけをしたかった。けれど蓋を開けてみれば指の隙間から取り零してしまうものばかりでトイレに籠って人知れず涕涙するほどのことしか出来ない自分に気づいてしまう。そんなものになりたかったわけではないのに。
彼女の肩に額を押しつけてぼやけば、ざあざあと流れていた水音が止んで、次いで頭をわしゃわしゃと撫でられた。まるで友達と喧嘩をした子どもを慰めるかのような手付きに幼い行為を自覚して些か羞恥心が刺激されたけれども、彼女はなにかと言えば僕の頭をわさわさと撫でまわす癖がある。よしよし、今日も賢いあたまのかたちだ。そんなよくわからないことを言いながら。
「聖くんは日に日にかっこよくなっていくね」
昔から、彼女にはあからさまなお世辞を言う癖がある。
「そういうところ、好きだよ」
あからさまな慰めを言う癖もある。けれどそれが例え口先だけのものだったとしても、心に貼りついた憂鬱の端がぺらりと剥がれてしまうから不思議だ。彼女が好きだと言うのなら、今ここにいる僕が、ここにいる僕にしかなれなかった僕が最良の選択をした果ての僕だと思えるのだから、それもまた不思議だ。彼女の傍でひとつふたつと真実が増えていく、例えば望んだ形とは違うものでも。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
「はは、なにそれ」
彼女の肩に額を押しつけたまま暫く泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、また、指の隙間から取り溢してしまうものを見つめて、前を向くのだ。