※映画本編後、捏造過多

あけがた



 寝ても覚めても気がつけば彼女との思い出に溺れている。その逐一にカメラを構えていたらきっと大変なことになっていたに違いない。残しておきたいシーンが多すぎて、写真やフィルムで僕の住んでいるワンルームは足の踏み場もないほど混沌としてしまうことだろう。

「ねむいねむいねむいねむい――」

 互いにヘルメットをしている挙句にびゅうびゅうと吹きすさぶ風にかき消されて彼女の声は僕の耳まで明瞭に届かないけれども、呪いのように彼女があんまり繰り返すものだから多分「眠い」と言っているのだろうと推察して少し笑う。北海道は日本の中でも比較的夜明けが早い地域ではあるものの、明け方四時の世界はまだ暗い闇に覆われたままだ。眠いのは充分理解できるけれど、どうかスクーターの後部座席で眠りに就くだなんてアクロバティックな真似はしないでくれと祈りながら彼女が好きな歌を口ずさんだ。これもまた吹きすさぶ風にかき消されて彼女に届くことはないだろうけれども、それでも良かった。

「まだなんも見えないよ」
「もう少しだよ」
「もう少しってどれくらい?」
「もう少し。こっちおいで」

 彼女が駄々を捏ねる前にと、手招きして抱き寄せて砂浜の上に腰を下ろした。計算通りに大人しくなった彼女は、けれど落ち着きなくすぐにそわそわしはじめて、最終的には手の届く範囲の砂をざらざらと散らしては小さな貝を集めることに夢中になっていた。居合道大会の遠征時に東京で出会った彼女は内陸の街に生まれたせいか海にそれほど縁がなく、比較的海の近い街で育った僕の話をいつも羨ましいと言って恨めしげに聞いていた。三日前、水平線から昇る朝日はまた格別だと話したら自分も見ると言って聞かなくて、金曜の夜にわざわざ飛行機に乗り込んで北海道まで来たものだから仕方がないとスクーターを走らせた。自ら言い出したにも関わらず、眠い眠いと文句ばかりを言う彼女を乗せて。

「あっ、きれい」
「はは、それ貝じゃなくてガラスじゃない?」
「いいのー」

 膝の間で密やかに喜びはしゃぐ彼女を前に心のシャッターを押下した。またひとつ、思い出してはにやにやしてしまう要素が増えた。厭な夢を見たと言って寝起きに突然泣き出してしまう繊細さも、過去に一度だけした大きな喧嘩をした後に彼女がぽつりと零した愛の告白も、彼女が住むアパートの駐車場で交わした初めてのキスも、それをこっそりと覗いていた野良犬の黒い瞳も、なにもかも昨日のことのように思い出せる。少しでも気を抜けば彼女との思い出に浸る悪い癖がついてしまった。幸福とは得てして甘美なものだ。

「ねえ、提案なんだけど」
「うん?」

 二人の関係になんの不安要素も解決を要される問題もないと言えば真っ赤な嘘になる。程度の過ぎるものではないとはいえ価値観の差異はある。彼女に憤り、それを腹の内に隠すことにどうしようもなく辟易してしまうこともある。けれどもここに来るまでの間、等間隔に並んだ街頭が照らし出す国道を走りながら、これは彼女と歩んでいる恋路そのものだと考えていた。辺りは暗くて、朧げにほんの少し先が見えて、ゴールは不明で、けれどもなんの恐れもなくひたすら前に進んで。冷たい風に反して背中に押し付けられた彼女の体温があたたかくて。街頭が照らし出す、ひとつ先の未来に進みながら、ひとつ前の未来を超えながら。こんなふうに、ずっと。

「うち、この近くなんだ」
「ご実家?」
「うん、そう。連絡はしてあるからさ、挨拶に行かない?ついでに」

 東の空が次第に明るくなっていく。けれども、泣いているのか笑っているのか判らない顔をする彼女のあまりの可憐さに、空に向けるカメラなどない。