まだ福城くんのことをそんなに知らない。
「そんなの興味あるの」と前置きを純粋な微笑みを浮かべたあとで、彼がやっと暗くなりだした空を待ちきれないように車を出してくれた。
夜の海、というのを見たことがない、見てみたい。なんて子どものような言葉を、たいして否定することなく連れて行ってくれるのはまだ付き合いたての彼女の特権というやつなのか。
「帰りは普通に郁ちゃんの家の前で降ろしていいんでしょ」
「うん。いつもありがとう」
「まあ、ぎりぎりまで一緒にいれるし、夜道は危ないから、そのくらいさせて」
「でも二度手間でしょ、福城くん」
「全然大したことないよ」
本当にくだらないというか、取るに足らないというように彼が首をゆっくりと振った。彼は順調に車を海へと近づけていく。福城くんの車に乗るのはまだ三回目くらいで、それは付き合いだしてから彼の家に行った数と同等でもあった。
「なんか心配なんだよね、ぼーっとしてるとかじゃないけど、他よりなんか心配になるから」と、彼の送るという言葉を断った二度目の時、言ったのだ。鞄を持ち、玄関で靴を履いているわたしを真っ直ぐに見つめた福城くんの手にはもう、車の鍵があった。
他の、過去に福城くんと付き合ったであろう女の子と比較されていることと、そして、わたしはその子たちと何が違うのかよくわからないまま、彼の車と言うちいさなお家へ移動して運ばれていく。
車には個性が出るし趣味も出る、流れる音楽もそうだけれど、たぶん置いてあるものをすべて取り払っても分かる、福城くんの温度みたいなものが染みついた車。他の人の車にもその人の体温や、思い出が染み込んでいるのかも知れない。
真っ直ぐで、急に真っ暗で何もなくなった道に気が付いて、そっと窓に顔を近づけると、福城くんが「もう直ぐ着くよ」と見透かすように笑った。
「でも急にどうしたの」
「高校生の時に制服デートがしてみたかった、」
「え?」
「そういう憧れと同じ感じ」
「彼氏と、夜の海?」
「でも、福城くんだったから余計行きたかったのかも」
「うーん、ちょっと分からない」
言い切ったくせに、車は走るのをやめないし、彼の唇はちゃんと上がってくれた。
夜の海に立っている福城くんを見たかった、なんて言ったらどんな顔をするのだろうか。嬉しいのか、ばかばかしいと感じるのか、わたしにはまだ想像もつかない。ただ、車を丁寧に運転してくれる(なんとなく元はここまで丁寧に運転するような人でもないのだろう、と空いている道路を走る時の彼の車の動かし方で分かっていた)その優しさが、車が急に止まって「今、大丈夫だった?」と福城くんが問いかけることすらどうでもいいことに感じる、それこそ取るに足らないことだ。
素早くシートベルトを外してわたしは歩き出す、車はひとつも止まっていない上に、そもそも人がいない。シーズンを終えたせいなのか、人気のないところなのか。少し遅れて車を降りた福城くんが携帯の画面を光らせながらこちらへ歩いてくる。
「暗いなあ」
「暗いね」
「危ないから長居はしないよ」
「うん」
彼は携帯でアラームをセットして、設定した時間をわざわざわたしに見せてくる。この時間までは十分に満喫しなさい、まるで母親という概念が示す行動みたいだ、と思ったけれど、福城くんは母親ではなく彼氏だから言わないでおいた。
波もなく、ただ砂と、見えないずっとずっと奥から存在する塩水が砂を濡らしているだけの景色。そういえば、わたしは鞄をまるごと車に置いてきてしまったけれど、正直携帯の必要性も感じられない。彼は隣にいるから連絡の必要もないし、景色は目が、頭が、身体全てが覚えていられるのだから。
海の音ばかりの世界でわたしは携帯を仕舞ったまま夜の海を眺める彼を眺めていた。彫刻みたいに滑らかだったり、鋭かったり、きちんと整えられた顔立ちが暗闇の中でぼんやり輪郭だけ浮かび上がる。猫のように瞳ばかりがきらめいていて、海を、そして時たまわたしを見つめて「これ、満足してる?」としびれを切らしたように笑った。
腕時計を見ることも忘れていたわたしは何分経っているのか分からないけれど、まだ正直物足りなさを感じていて、でもこの物足りなさは終わることがない。多分、果てがないほど福城くんと一緒にいたかったり、朝焼けを見る彼の顔だって見ていたいのだからこんなに短いアラームの時間では足りなすぎる。ただ欲望に果てがないことを知っていても、臆面もなく口に出すような彼女になりたくなかったわたしはただ「大満足」と言って見せた。
「本当に?なんかそういう顔じゃないけど」
「満足してる」
「嘘は駄目だよ」
「だって行きたいって言ったのわたしだよ、満足しないわけないじゃん」
んん、と唇を歪ませた彼が何かを言おうとしたときに、彼がよく聞いている音楽が鳴り響いた。ここからでは聞こえるはずもない海の音をかき消すように。福城くんがアラームを止めて、照らされた人工的な明るさの横顔も大好きだ。
でも、ここから出たくない。海じゃなくてもいい、海も行きたかったけれど、また小さな彼のお家に収まったまま自分の家に帰る、今日もそれで終わり。当たり前のことだ、と分かっているはずなのに、果てのない欲望を持つわたしは図々しさも同じくらい持っており、それを抑える術を百パーセント持っているわけではなかった。
「うそついた」
「ほら、」
「帰りたくない、全然満足してない」
「……そんなに海好きだったっけ」
そういう意味じゃないことも知っているはずなのに、彼はまるで頭より先に口が動いた自分に驚いた顔のままそう言った。言ってしまった、引き返す場所もないままわたしは何も持たない虚しさと、遠くから来る幻想のような塩の匂いに目を細める。またすぐに暗くなった世界の中で、彼はわたしに手を差し出した。
「帰るよ」
「……うん」
「郁ちゃんの家には送らないけど、いいよね」
「え?」
「海より僕の家の方が落ち着かない?というか、帰りたくないって本当に海のことじゃないよね」
最後の言葉で、どうしてか急に不安げな微笑みを浮かべた彼の手を、肯定の意味を込めてぎゅっ、と握りしめた。
「海は満足しました、嘘じゃないです」
「じゃあ何に満足してないの」
「福城くんと、いや、……言わなくても分かるよね」
「ちゃんと言って」
「もうちょっと一緒にいたいだけ」
「はい、了解」
いつもなら、図々しい言葉をこんなにも臆面もなく言うという恥ずかしさに立っていられなくなるほどなのに、彼があまりにも満足げに、満たされたように微笑むのでわたしはそれだけで納得して、彼と同じくらいに満足してしまう。
「どこかで買い物したいな」、とわたしの手を引きながら呟いた福城くんの隣にきちんと並んだわたしは、さっきよりずっと近くで、大好きな横顔を眺める。
海の音、塩の匂い、夜の闇、車という世界、全部、福城くんとだけ一緒にやってみたかった、なんて笑われるから言えないけれど。
「時間はたっぷりあるからどんとこいだよ」、自分で言って、やっぱりずっと足りなかったのだ、と気付く。福城くんが足りなくて、福城くんとの時間が足りなくて、でもこれでちょっとだけでも足りるのだ。
お互いに好きで、毎日連絡を取っていても足りなくなるなんていう図々しい自分が嫌でずっと見ないようにしていたけれど、言葉にしてしまったら全然悪くなかった。
わたしの手を壊さないように、でもぎゅっと握りしめた福城くんが車の前で立ち止まって、わたしの髪を撫でて笑う。
「僕も正直、結構遠慮してたよ」
「……そうなの」
「でも、しなくていいって分かったから」
繋いでいた手を離すこともしないまま、耳元に彼が唇を寄せて、「満足しきっても離さないけど」なんて囁くからわたしは先程みたいに「どんとこい」と茶化す余裕もなくなって、ただ無言で首を縦に動かした。これは頷いているように見えるのだろうか、それほどまで力なく、ただ首が動く。
立ち尽くしたままのわたしを助手席に放り込んだ福城くんは「シートベルト」とだけわたしに言って、車にエンジンをかける。多分、この車の速度は行きと違う、なんて考えながらシートベルトを締めると、待ちきれないと言わんばかりに車は羽が生えたように走り出した。