玄関で靴を履いていたら歌が聞こえた。どこの小学生が歌っているのだろうかと思ったけれども、調子の外れたへたくそな歌には聞き覚えがあった。鍵を掛ける前にすぐ脇に設置されている駐車場へと目をやればスクーターのタンデムシートに跨った彼女が鼻唄と呼ぶにはいやに大きな声で歌っているのが見えた。例の函館での事件後、およそ二十年を過ごした住み慣れた実家を出て、去年引越してきた三階建ての小さな一戸建てには小さいながらにもきちんと駐車場が備え付けられているのだけれども、生憎車を持たないから広々とした駐車場には僕の水色のスクーターと彼女のオレンジ色の自転車だけが隅に寄せて置いてある。駐車場の隅に寄せたままのスクーターの上で彼女はいっそ不審に思えるほどに上機嫌だった。今週末は二人で遠出しようと週の始めに決めて以来、彼女はずっとこの日をずっと楽しみにしていたのだから無理もない。
「へたくそだね」
「ふふっ」
鍵を掛けながら彼女の歌を謗ったけれども、大袈裟な笑声を漏らして笑った彼女はお構いなしに歌を続けた。ああ、近隣の家庭に一体どう思われるだろうか。この家の奥さんは劇的に音痴だとご近所で噂になってしまうかもしれない。
家の鍵をポケットの奥へと押し込んで、郵便受けを回りこんで駐車場に入り、隅に置いてあったライン入りの白いヘルメットを取れば存外埃にまみれていて、そういえば彼女をスクーターに乗せて遠出するのは半年ほど前に映画の影響で開拓の村へ行きたいと言った彼女を乗せて札幌まで旅行して以来だったろうかと思い返した。成程、彼女のはしゃぎようも納得できる。
「ちゃんとヘルメットしてね」
「うん」
「はい」
「ありがとー」
丁度手の届く場所にあった洗車用の道具を収めている籠を覆っていたタオルでヘルメットの埃を簡単に拭きとって彼女に手渡せば、彼女はによによとだらしない笑みを携えたまま髪の毛を右耳の後ろで簡単にまとめてヘルメットを被った。オレンジ色のヘルメットは学生時代彼女に贈ったものだ。誕生日に何が欲しいかと尋ねたら、一緒に旅行へ行けるようにヘルメットが欲しいとせがまれた。一生をこの人に捧げようと決意したのは思えばその時だった。
彼女にオレンジ色のヘルメットを贈る前から愛用していた青いヘルメットにも同じように埃が積っているのを見て、最近の生活がいかに仕事に食いつぶされているかを思い知った。昔は毎日のように居合の鍛錬を終えてからスクーターの手入れをして、ほとんど週末は家にいなかった。彼女を後ろに乗せて遠出するのもしょっちゅうで、来週はどこに行こうか、と言うたびに花が咲いたように笑う彼女を見るのが好きだった。
「それじゃあ、行こうか」
「はいっ」
「なんだっけ。海の見えるとこ?」
「そうっ」
水平線の見えない街で育ったせいか、遠出をするとなると決まって彼女は海が見たいと言う。これまでに訪れたことのない海岸と言えばどの辺りが良いだろうかと頭の中で道内地図を広げながらシートに跨れば、背後からにゅっと伸びて来た彼女の両腕に捕まった。別段気にすることもなく、スクーターの鍵を求めてジャケットのポケットを探っていると背中越しにへたくそな歌声が響いた。
ふいに、泣きたくなってしまった。
彼女を世界中の誰より幸せにしたかった。僕にそんなスーパーマンのような力が備わっていると驕るわけではないけれども、せめて間近で彼女が幸せでいることを見守る大役を賜ろうと結婚を申し込んだ。ご飯がおいしいと幸せだと彼女は言う。僕の帰りが早いと嬉しいと彼女は言う。今日が楽しみだと彼女はしきりに言っていた。
彼女を世界中の誰より幸せにしたかったのだけれど、世界中の誰より幸せになったのは僕だった。そのへんに落ちている幸せを賢い両手で拾い上げて、ありとあらゆるものものに気付くことができないでいる鈍い僕のポケットの中にひっそりと詰めておいて、彼女は素知らぬふりで鼻唄を歌っている。きっとそうだ。ポケットの中から取り出したスクーターの鍵は肯定を示すかのようにきらりと光った。
「ねえ」
「はい」
「これからはさ、もっと出掛けようか」
「え、なぁにいきなり」
「あと車も買おう。安いのでもいいから」
「うん。いいけど。なんで?」
「家族が増えたらスクーターじゃ出掛けられないでしょ」
回りくどく、そして随分と恥ずかしいことを言っていると自覚はあったけれども、それでも背後から小さく鼻唄が響いたものだから些細な含羞はすぐさまどこかに吹き飛んでしまった。
彼女は歌がへたくそだ。自覚しているかしていないかはこの際置いておくとして、カラオケに行くと周囲の慰めを一切寄せ付けないほどの音痴で、それはいっそこれこそ彼女の個性だと認めざるを得ないほどだけれども、彼女の鼻唄を不快に思ったことなどこれまでただの一度もない。
それどころか、僕は彼女のへたくそな歌が耳朶を擽るたびに思い知る。
早朝の寝室まで届く包丁がまな板を叩く音。少し離れたところにある小学校の鐘の音。耳朶に馴染んだ愛車のモーター音。耳触りの良い音はいくらもあるけれども、彼女の声に勝るものはない。