排他的な僕の隣



 顔を突き合わせてひたすらにストローに口をつけていると、平次がぼんやりとした緑色の目でこちらをじっと見ていた。あまりにも小さな顔に、恐ろしいほど完璧に配置された美しいパーツたちに本人はどれほどの威力がある、と感じているのだろうか。多分、その顔で不愉快な思いをしたこともあるだろうけれど、得をしたこともあるのだろう。
 美貌というのは人を狂わせる、良くも悪くも、なんて思いながら啜ったお茶は酷く苦かった。表情に出さないようにそっとその苦みを喉の奥底に落としていると、沈黙を苦とも思わない平次が急に言葉を放つ。

「新幹線、何時のやったっけ」
「えっとね」

 彼はいつもよくわからないような飄々とした顔で真実ばかりを告げるから、たまにこちらが慄いていることに気付いているのだろうか。本当は暗記している新幹線の時間も、ちらちらと気にして止まない時間のことも、平次はたぶん気にしていない。凪いでいる、寛いでいる、わたしの目の前にいる服部平次という人をそう表現することがたまに正確なのではないかと思う。抜けている部分は間違いなくあるけれど、西の高校生探偵と呼ばれる程度には頭がいいし、剣道も強いし、一つ一つの物事に長けすぎている。だからこんなにも、わたしばかり、彼の元から離れたくないなんて、バカみたいなことを考えてしまっているのだ。
 財布から新幹線のチケットを取り出して時間を読み上げると、彼はちらりと後ろを振り返り時計に目をやる。

「まだちょっとあるか。あ、でも土産買うならそこまで余裕ちゃうな」
「うん」

 携帯を取り出してテーブルの上に置いたまま、平次が時間を確認する。そのまま、指先は流れるように動いてアラームをセットしたのが分かった。あと、何分でこの店を出るのだと平次が決めたのだろう、それが十分でも五分でもさほど変わることはない、ただただ単純に“すぐ”離れるだけだ。
 ちいさな紙切れは、わたしが触れるといつの間にかボロボロになってしまうので、すぐに財布に仕舞う。一連の流れを平次はただひたすらに緑色の眼球に映している。髪は乱れていないだろうか、リップは落ちていないだろうか、次に会えるのがいつなのか分からないけれど、一先ず最後に平次が見るわたしは可愛いだろうか。そんなことを考えていると自然と背筋は伸びて、恋をすると女の子が綺麗になるというのも強ち嘘ではないのかもしれない。鞄に仕舞ったはずの財布、その奥のチケットがまるでゲームの拡大鏡を当てているかのようにわたしの偽物の視線がその存在を不要なほど圧倒的に認識させる。
 半分ほど残っているお茶にまた一度、口をつけた。平次越しに見える時計の秒針が、一秒、また一秒と動いていくことが安堵なのか、恐怖なのか分からない。
 終わりがあるから始まりがあるとはよく言ったもので、今日帰らないと、次に平次に会うことはないのだ。平次に会わないと別れは来ないけれど、平次と別れないとまた会うこともできない。なんで、わたしは新幹線に乗るのだろう、一人で、時間をかけて、揺られて、平次の事ばかり考えて。

「帰りたくない」

 ストローに当てていた筈の唇は、いつの間にか、そんな言葉を紡いでいた。懇願でも、悲しみでなく、ただ茫然とした自分の声が店内にうすぼんやりと広がって、一瞬で消えていく。帰りたくない、でも帰ることが当然で大人として当たり前であることを知っているから、こんなにもわたしは茫然としているのだ。茫然、愕然、そんな声で放ったせいか、その言葉はまったく甘い響きにはならなかった。目の前の平次の顔を見ることすら恐ろしく、テーブルに乗せられていた彼の指に視線を落とす。無造作に置かれていた彼の手が、まるでCGグラフィックのように美しく彼の顔に添えられる。軽く肩肘をついて、顔をこちらへ向けたまま、少しだけ首を傾げたような形で、平次は最初と同じように寛いでいた。けれど、ただ寛いでいるのとは違う、なにか沢山の宝箱の中身の内のどれを取り出すか悩むようにゆっくりと言葉を探す顔。丁寧に少しだけ、一瞬だけ、目を伏せた後、真っ直ぐにわたしを映す瞳はもう澄み切っていて、全てが彼の中で決まっている。

「俺も」
「平次は帰らないじゃん」
「ちゃうって。のこと、どうやったら帰さんで済むか考えてた」
「どういうこと」
「どういう、って、そういうことやろ」

 平次が笑うだけで、そこは宇宙のように光が瞬いて見える。光が瞬くだけで、わたしは何もかもが、平次が世界の中心にあるような錯覚を起こす。わたしの世界の中心はいつでも自分であるはずなのに、こうやって、平次がわたしの世界のように見えるのだ。星々が瞬くような微笑みを浮かべた平次が手元のグラスに入った液体をゆっくりと飲み干す。
 すっきりとした喉元のラインが液体を流し込むことによって、波打つように動く、それだけでまるで芸術品のようだ。あまりの光景と事態に脳の処理速度が極端に低下している。
 そんなわたしを叩き起こすかのように、テーブルに起きっぱなしにされた携帯がまるで見計らったかのように振動で時間を告げる。ぶぅぅん、小さな扇風機のような携帯のバイブレーションを躊躇いもなく切った平次が、携帯をそのまま無造作に自分の鞄に押し込んだ。

「これ、いらんかったな」
「え?」
「アラーム。やって、乗らんでええやろ。俺んち、もっかい戻るし」
「……本気で言ってる?」
こそ、帰りたくないって言うたやろ。俺も。帰したくない」

 真実は苦しい、恐ろしいほど正しいから。
 平次に懇願したくなるほど、彼の唇から紡がれる真実は美しい睦言に聞こえて、わたしは正常な判断が出来なくなる。正常とはそもそもどんな状態なのだろうか、わたしはたぶん彼の手元に置かれてから一度も正常だったことはない。
 もしも、恋愛が人を正常にしないのならば、わたしと同じく平次も正常ではないのではないか。
 いつの間にかわたしの鞄を掴んで、飲みかけのわたしのグラスをじっと見つめたまま、「もうええんか」と平次が言う。わたしは手を伸ばし、ストローに口をつけるけれど、苦かったはずのお茶の味はもう分からない。ただいつの間にか空になっていたグラスと殆ど同時に椅子から立ち上がって店を出る平次に、わたしはついていく。いつもなら合わせてくれる歩幅も、今だけは追いつけないほど早い。

「ヤバいな」
「ヤバいよ」
「や、俺が、ヤバい」
「どういうこと」

 急いで駐輪場に向かう平次の空いている腕を掴んで、縋りつくように、もしくは引きずられるようにわたしは彼の隣に立つ。追いついた、と思ったら話し出した彼のその言葉の意味を理解するより先に、平次は言葉をまた付け足した。

「もう、ずっと帰らんでええって思うわ」
「……?」
「なんでこんなに離れたないんか分からへんけど、」

 平次が本気で、真剣に、「なんでやろな」と呟く声は空気に溶けていく。彼の腕をしっかりと掴んだわたしが新幹線のチケットのことも明日のことももう何も考えていないのと同じように、平次もきっと明日あるたくさんのことを今はもう何も考えていないのだろう。
 もしも明日、平次の家でこの瞬間を後悔したとしても、今のわたしは明日になっても後悔を知らないわたしであると信じることができた。平次もきっとそうだ、こうやって彼のことを盲目的に信じることもきっと正常ではない。

「平次、帰ろ」
「当たり前やろ」
「うん」
「一秒も無駄にせぇへん」
「珍しい」
「分かる、俺も珍しいと思うわ」

 馬鹿みたいに真剣にそう答えるからわたしはまた笑ってしまう。
 常に正しい平次も、正常であるわけではないんだな。そんな風に考えると、まだわたしは平次のことを全然知らなくて、知らないということはもっと知ることが出来るということで。
 当たり前に、まだまだ知らない平次の知らないところを少しずつ拾い集めることを幸福以外の言葉で表す方法をわたしは思いつかない。バイクまでのまだ少し遠い距離、待ち切れずにバイクのキーを取り出して指先で弄びだす平次の隣を小走りでついていきながら、わたしはまた星を見た。