隣を走り抜ける



 ファストフード店はどうしてこんなに明るいのだろう、と階段を上り、トレイの上に置かれたカップの中のお湯が揺れる。
 向かい合う形の二人席の一番端で先に着いていた彼女が紅茶を啜ろうとして止めている姿を声をかけるでもなく見ていた。何度か口をつける姿はまるで猫の様で、けれど猫にしては学習能力がなさすぎる。何度目かのあとに、疲れたように背もたれに身体を預け、階段の横で立ちっぱなしだった俺を見つけた彼女が目を開く。驚きというよりも怒りを含んだ目に、俺は思わず意地の悪い笑みをこぼしながらいつの間にか萎びたポテトと、お湯の入ったカップが乗ったトレイをテーブルに置いた。
 紅茶のパックの袋をお湯に入れてから、ポテトをざっと彼女の方に向けて出して見せると、「太るからいい」と首を振る。

「もうどうにもならんて」
「ハァ?っていうかいつからいたわけ」
「普通に今」
「嘘だー絶対人の事馬鹿にしてたでしょ」
「それは今着いたとか関係ないやろ」
「ていうか紅茶?珍しいね」
「なんやコーヒーメーカー故障しとるらしいわ」

 ちょっと濃い色になってしまったれど置く場所もないティーバッグを取り出すことを諦め、渋い紅茶を啜った。
 期間限定のチーズソースの蓋を開けると、先程までいらないなどと言っていた筈の彼女が何度もこちらを伺っているのが分かる。女子、というのはどうしてこうも見た目を気にするのだろうか。俺からしてみたら特別気になることなど無いというのに、太っただと痩せただのと一喜一憂する姿を何度も見てきている。藤堂は口ばかりというよりも、多分どこか見えない所で節制しているのだろうと思わせるような飲み食いをする。太っただの痩せただの言う割に見た目はいつ見ても変わっておらず、たまに肌に疲れが見えるのは、多分お互いさまだろう。
 なんやかんやで人の好意を断ることがなく、結局今も小動物か何かのようにチマチマとポテトを運んだ口元を綻ばせている。女子がアボカドとチーズを何故好むのか、というのも結構シンプルかつ男の俺には一生理解できない疑問なのだろう。ただ、アボカドが好きだろうが、チーズが好きだろうが、パンケーキが好きだろうが、それは俺にあまり関係ない。

「服部、これ美味しいよ」
「太るんちゃう」
「ねー太るねーでも美味しいよー」
「なーにが太るからいい、やねん」
「一回抵抗しておかないと食べる罪悪感があるんだよね」
「全く理解出来ひんわ」

 でしょうね、と言いながらチーズソースをたっぷりとつけたポテトを口に運んで、最初に見た時よりもてかてかと唇がしているのは単純に油のせいか。初めから変わらない桃色の唇が数本のポテトを咀嚼し終え、手を拭いた後に、やっと紅茶に口をつける。先程何度も口を付けては離していた、子供のようなしぐさを思い出していると、彼女が目ざとく「ほら馬鹿にしてる」と唇を尖らせた。俺は彼女のそれよりも湯気のたっている紅茶に口をつけながら、首をただ傾げてみせる。

「ムカつく」
「人のポテト勝手に食って何様やねんお前」
「あ、頂いております、すみません」
「まぁ俺がええって言ってんけどな」
「そうだよー服部がこれ見よがしにさぁ」

 歌う様にそう言って、結局ソースをつけることもなくまた彼女がポテトを口に運んで、細い喉が動く。
 彼女の呼ぶ俺の名前はほかの誰が呼ぶとも違う音を持っていて、俺はいつも彼女の声に馴染んでいる俺の呼び名に少しだけ遅れてから戸惑ってしまう。まるで自分が呼ばれているのを忘れてしまうかのように、彼女の領域に自分が所属しているかのような気になる。
 藤堂は俺のものではないし、俺も藤堂のものではない。それでも、まるで彼女のものになったような声は音になって、でもその音が俺は、不愉快ではなく、寧ろ心地良いのだ。
 だから、時たまに携帯を触って人と連絡を取ったりしている間、彼女が俺のことを細い声で、邪魔をしないようにと呼ぶ瞬間に聞こえないふりをしてしまうことがある。服部、と呼んで、聞こえないと分かると少し心細い顔で周りを見渡して、少し時間が経った頃、また俺を呼ぶ。二回目に顔を上げると、一度目に反応した時よりも安心したような顔で「ごめんね」と言ってから何かを話し出す。目の前の藤堂を優先していない俺が咎められるべきなのに、傍若無人のような言い回しで俺に食って掛かるわりに謝るのは藤堂ばかりだ。

「服部も食べなよ」
「言われなくても食べるわ」
「かわいくない」
「お前より可愛げあるやろ」

 にっと唇の両端を持ち上げると、「否定できないんだよね」とあっさり彼女は折れて、渋い色の紅茶をゆっくりと啜った。
 出鼻をくじかれた俺はポテトにチーズのソースをたっぷりとつけて口に運ぶ。買ってから少し時間のたったポテトはとっくに油が行き渡って萎びていて、ひどくジャンクな味がした。
 そういえば、こんな時間にこんなものを食べるのは藤堂といる時ばかりかもしれない。お互いに気取った店で顔を突き合わせるなんて柄じゃない、と言っても、成長していないにもほどがある。たまに食べると美味く感じるそのジャンクなポテトを黙々と口に運びながら、考えてみる。
 例えば、もっと背筋を正すような所で向かい合って丁寧に食事をしたら。何を俺たちは話すのだろうか、何を考えるのだろうか、その喉が紡ぐ「服部」という音は変わるのだろうか。
 深夜のポテトと渋い紅茶を口に運びながら、歌う様に楽し気に話す彼女の声を聞きながら、そこに混じる俺を呼ぶ音を拾い上げる。きっと、もっと違う、こんなに明るくない場所で向かい合ったら、気恥ずかしくて堪らなくなるだろう。
 それでもそろそろ、気恥ずかしさの先にある何かを見てみたい。
 何故なら、彼女が紡ぐ俺の名前は気に入っているけれど、その呼び方が、変わって欲しいと、実は思っているのだ。