Symposion



 正直、こういう扱いには慣れている。今日のためにと三日前から悩みに悩んで選び抜いた黒のワンピースは床のうえに丸まって、ちっとも荷物の入らない小さくも愛らしいバックの下敷きになっている。皺になってしまうだろうけれども構うものか。ベッドの上から起き上がる気力などもうない。
 本来ならばわたしは今、予約を取ることが困難なことで有名なテレビで何度も紹介されているフレンチレストランでほっぺたがおちてしまうほど美味しい料理と一滴で心地良く泥酔してしまうほど美味しいワインを、買ったばかりのブランドもののトレンチコートよりも何もするべきことのない土曜日の夜よりも或いは少しひどい言い種になってしまうかもしれないけれど実家で飼っているペットのジョンよりも弟よりも両親よりも愛している恋人の向かいで食していたはずだ。今日のためにと三日、とはいえ24時間かける3の濃度でそのことばかりを考えていたわけではないので正確に言うと一時間程度悩み抜いて、ワードローブのなかから選びだしたワンピースを女の子の扱いが上手くない、正しく言うのならばまるでへたくそな彼が褒めることはないだろう。先週買ったばかりのバックが新品だと気付くこともないだろう。それでも良かった。彼のためだと大義名分をふるって挑むお洒落の全てはわたしのためで、彼がどんなにわたしを褒めずとも嘘を言うこともなければそもそも愛想というものを嫌うというか、知りもしない彼がわたしを恋人と認めるただそれだけで与えられるどんな讃辞にも勝る優越を得ることが出来る。
 けれどもそれと、今この時わたしの時間があるべき形で消費されていないという事実に対する怒りはまるで別次元の問題だ。円卓の淵で上品に微笑んでいるはずのわたしはユニクロのTシャツにスウェットを着てベッドの上にだらりと寝転んでいる。わたしの向かいでわたしのとるにたらない日常の小言に聞いているのか聞いていないのか判断できない声音で相槌を打っているはずの彼は携帯電話の向こうでただただわたしに平謝りしている。
 デートのドタキャンは今月に入って三回目だ。ちなみに今日は今月に入ってまだ二回目の金曜日だ。

「ええいい、別にいいよ。なにも問題ないよ。待ち合わせの三十分前に電話がきていやーな予感がするのもおしゃれが無駄になることも勝負下着が勝負することなく洗濯機に放り込まれるのもディナーに備えてなにも用意してなかっただけにコンビニのまっずい弁当をひとり虚しくつついてひとり悲しく眠りに就くのなんて?なれっこですから?」
『……今日はまた随分と厭味だな』
「そうかなあ?それはすみませんでした降谷零警部殿」

 携帯電話の向こう側の空気がピリリと震えたのが分かった。確かに今日のわたしは普段に比べて5割増しくらいに厭味な奴で、仕方のない事情での損ないに平謝りする彼にひどいことをして、これではわたしのほうが悪者で謝罪をするべきはわたしのほうかもしれない。けれども今日は、今日だけは謝ってなんかあげない。
 電話から漏れ聞こえる彼を取り巻く周囲の雑音は23時を回っているというのに騒がしい。それは居酒屋や歓楽街の煩いと一蹴してしまえるような類のざわめきではなくて慌ただしい類の嫌な騒がしさだ。パトカーの音が止むことなくずっと響いているのは警察官という彼の職業柄だ。世界が平和にならないから、わたしの彼はいつだって忙しい。
 6年前、友人の紹介で知り合った頃には彼は既に警察官だった。その頃から既に裏表の落差が激しかった彼はなぜかわたしに対して他の人間に普段するような丁寧な対応をしてくれなくて、女の子の扱いを心得ていないわけではないというのに、優しくなくて物言いはどこか乱暴でぶっきらぼうで、最初はどうしてこんなひとを紹介するのかと友人を恨めしく思ったものだけれども、彼の中心に近いところへ触れるたびに凛々しさや正しさ、彼の信念を知って惹かれてしまった。
 警察官という彼の仕事を理解しているし、彼が望んで就いた仕事だと言うことも理解しているし、彼が好きでこうして休みなく働いているわけではないということも理解しているし、彼がわたしとの約束よりも仕事を優先するのはわたしという存在を軽んじているからではないということも正しく理解している。けれども今日のわたしはどうしても彼に優しくできない。優しくする気になれない。仕事でいやなことがあったのだ。良い歳をして、ただの八つ当たりだ。

『……いや、僕が悪いな。すまない。埋め合わせは必ずするから』
「へえ、埋め合わせ。でも今日が埋め合わせの埋め合わせでしょう?つまり、来週にでも埋め合わせの埋め合わせの埋め合わせをしてくれるってことですよね?」

 少なくとも悪いとは思っているのか、ひたすらに謝罪を続けていた彼もわたしの物言いにはついぞ黙ってしまった。普段のわたしが可愛いか可愛くないかは別として、今日のわたしはほんとうに可愛くない。可愛くないどころか彼にしてみれば憎らしいだろう、可愛さ余って憎さ1000倍といったところだろうか。自らが引き金となっているわけではない損ないにも謝罪を忘れない彼の優しさに甘えて、わたしの機嫌をなんとか持ち直そうとするその真摯さにつけこんで、苛立ちと淋しさを紛らわせているだけ。可愛くない。最低だ。良い歳をしてみっともない。子どもではないのだから。こんな風では愛想を尽かされてしまうと胸のうちでは恐れているのに、素直な心とは裏腹に唇から零れる悪態は止まらない。

「……零くんは」

 言ったら、だめ。

「わたしと仕事どっちが大事なの」

 頭のなかのわたしが止めたにも関わらず、聞き分けの無い唇からは答えの用意されていない質問がだらりとはしたなく漏れてしまった。わたしを選んでも、仕事を選んでも、わがままなわたしは歓喜しない。そして同時にどちらを選ばれようともその答えを探偵のような素振りで疑ってしまうだろう。今日のわたしは最低な奴だ。
 少しの間の沈黙。わたしが自分自身の愚かさにはっとする頃、プツリと聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。これが通話終了に伴う機械音ならどんなにか良かったか。わたしの願いとは裏腹に、それは彼の堪忍袋の緒が切れる音だった。

『ふざけるな!いい加減にしろなんなんだお前は!』

 わたしの彼は優しくないけれども、それは分かりやすい形で優しさを示すほどに器用ではないだけで、ほんとうは誰よりも優しいひとだ。わたしがどんなに理不尽なことを言ってもどんなに横柄な態度をとっても、そういうわたしの不出来を親が子を諭すかのように叱ることはあっても、怒鳴ることなど一度もなかった彼に怒鳴られてしまった。怒鳴らせてしまった。わたしはびくりと肩を震わせて唇を噛む。彼の怒りは尤もだ。悪いのはわたし。謝らなければいけない。けれど、謝りたくない。意地だ。

「ど、怒鳴らないでよ!大人なのに!こわい!」
『あぁ!?お前こそ子どもじみたこと言ってるだろうが!仕事とどっちが大事か!?バカかお前はもういっぺん言ってみろ!じゃあ何だ、俺が刑事辞めれば満足か、俺が仕事辞めてプー太郎にでもなって朝も夜も24時間365日ずーっとお前の傍にいれば満足か!?』
「そっ、んなこと言ってないでしょ!」
『言ってるだろう!いいか、そういうことは刑事の俺と無職の俺と、どっちと結婚したいか考えてから言え!』

 結婚。彼の口から不用意に飛び出した言葉に怯んだ。
 彼と付き合うようになってもう6年目になる。わたしももう結婚を意識する歳で、彼ももう良い歳で、両親も歳で、わたしにはありとあらゆる意味で彼しかいなくて、周囲はどんどんわたしを置いて結婚していって、次はの番ねと言われるたびに本人にそんなつもりは微塵もないのだろうけれども卑屈な気分になってしまって、機会を見計らっては幾度となく切り出そうとしたけれども終ぞ言うことの出来ないままでいる微妙な話題。たいそれた問題も燃え上がるような情熱も無縁で平坦に、無難に6年目を迎えたわたしわたしたちの関係。この関係性をひょっとしたら危うくしてしまうかもしれないその言葉を、けれど彼はいとも簡単に舌に乗せてみせた。売り言葉に買い言葉のような、怒りに任せて口にされたものではないだろう。たぶん、わたしと同じように彼の胸のなかにもずっと沈殿していたのだ。一人で抱えるにはあまりに重く、二人で共有するにはひどく甘やかなそれが。

「……え?」
『…………あっ、ちがっ!!』

 電話越しに聞こえる彼の声から怒りが消えて代わりに動揺が窺えた。狼狽しきってあたふたと頭を掻く彼の姿が目に浮かぶ。ほんとうに体内の隅っこに転がっていた言葉が、逆流した血液に乗って唇までやってきて、なんの計算もなくほろりと零れ落ちてしまったらしかった。
 彼の息遣いに胸が打ち震える。いっそ泣き出してしまいたいけれども、この歓喜を1ミリリットルだって逃してしまうのはあまりに惜しい。ベッドの上にだらりと横になったまま、微動だに出来ずわたしは少しの間そっと息を止めてみる。肉眼で捉えることの叶わない電波に乗ってこの歓喜は届くだろうか。彼もわたしも超能力者ではないし、科学技術の進歩がめざましいとはいえ期待してはいけない部類の夢物語だろうけれども、どうか届いて欲しかった。このどうしようもなく溢れ出る愛しさ、わたしが自分自身の意思でこのひとのために削いできた時間、心、意識、すべて余すことなく。

「れ、れいくん、わたし」
『あー!いいから!もういい今日は僕が悪い僕が全部悪かった。本当にすまない許せ。埋め合わせ絶対するから。あー、埋め合わせの埋め合わせの埋め合わせ?絶対するから。だから今日はごめん。また明日にでも電話する。もう行くから!』
「えっ、零くんいや待って」
『…………なんだよ』
「あの、ごめんね。わたし、意地悪だった」
『……いいって。悪いのは僕だ』
「ちがうの!仕事でいやなことがあって。だから、八つ当たりした……」
『……ああ、なんとなく分かってた。元気出せは正しい』
「…………あと、」

 わたしは彼が好きだ。買ったばかりのブランドもののトレンチコートよりも何もするべきことのない土曜日の夜よりも或いは少しひどい言い種になってしまうかもしれないけれど実家で飼っているペットのジョンよりも弟よりも両親よりも愛している。かなしみも淋しさも見栄も意地も、わたしをわたしでなくしてしまう要素を与えては自らの手で摘んでゆく、わたしの正しさを知っている、わたしは彼なしではいられない。
 刑事でも無職でも降谷零が降谷零であることに変わりはないだろうけれども、刑事でない彼なんて想像できない。知りあった頃には、彼は既に刑事だった。平和にならない世界のために、小さなことでへこんで甘えて当たってしまうわたしのために、日々その身を削いで戦うひと。そういう彼がわたしを選んだ。それこそがわたしの誇りだ。

「結婚するなら、刑事の零くんがいい」
『……だろ?』

 その声に、その息遣いの逐一に、どんな高級ワインよりも上質な酩酊を手に入れる。だから、讃辞も埋め合わせも約束ももういらない。彼がわたしの存在を認めることと、わたしの時間が不本意な形で消費されてゆくのは全く別次元の問題だけれども、この膨大な愛を前に全ての事象は意味を失くして掻き消える。結婚という二文字を目の前にぶら下げられて現金にもそんなことを考えてしまうわたしは、飼い主の戯れに尻尾を振ってしまう飼い犬のようで些か悔しいけれども致し方ない。最後にもう一度悪い、と残した彼が通話を切ったあとも、ツーツーと無機質な電子音が鳴り止まない携帯電話を右耳から離すことが出来なかった。余韻に浸っていたかった。このひとなしでは生きられないと思い知る自分自身の呆れるほどの弱さに、もっと打ちのめされてしまいたかった。
 結局、ありとあらゆる面でわたしは彼に歯が立たない。