初恋に似せた銃口



 じりじりとした燦々たる夏の日差しが、カーテン越しに室内と体温を上げていく。
 ふらり、と立ち上がり冷蔵庫に向かって歩いていくけれど、冷蔵庫の中にはわたしの求めているものは入っておらず。彼はリビングのソファで身体を少し倒すようにしながら、黙々と録画していたテレビ番組を見ていた。見ているのはコロンボだとかホームズだとか、専ら昔の洋ドラだ。
 なんとなく、照りつけるアスファルトを窓越しに視界に入れた瞬間にファンタが飲みたくなった。スタンダードなグレープのやつ。夏らしさを感じるとたいていそれが飲みたくなる。わたしのこういう単純さを秀一さんは美徳だと笑ってくれるけれど、笑ってくれる秀一さんこそが一等美しい、と本当は思う。

「秀一さん、ジュースが飲みたいです」
「ジュース?どういうやつだ?」
「炭酸系」
「今か?……もう少し待ってくれ、これが終わったら一緒に行こう」
「いいよ、暑いし、なにか欲しいものある?」

 秀一さんがこちらを見たままぼんやりと、財布と合鍵だけを握り締めて準備万端と言わんばかりに立っているわたしの周囲の空間へふよふよと視線を巡らせた。冷蔵庫に入っている野菜やら何やらのことを考えているのだろう。
 この前一緒にスーパーへ買い物に行ったばかりだし、絶対にいらないって言うだろうな、と勝手に決めつけて彼の思考する少し空ろな淡い瞳を見詰めていた。いつかにわたしが贈った銀色のピアスがゆっくり揺れて、なにも塗ってないはずなのに恐ろしいほど色づいた唇は、真逆の答えを紡いだ。

「俺も、何か飲み物を」
「炭酸?」
「炭酸、……いや、やっぱりいい」

 わたしに任せることが嫌だったのか、と疑うくらい手早くリモコンを操作すると一時停止されていたドラマのワンシーンが立ち消えて、テレビ自体の画面が真っ暗に変わる。リモコンを滑らせるようにテーブルへ置くと、代わりに財布と鍵をするりとズボンのポケットに収めながらこちらへやってきた。わたしの真横をすり抜けて奥の部屋に入っていく彼の背中を眺めながら、彼には些か小さかったのかぴったりとしたラフなTシャツから浮き上がる身体のラインに、いつもふとした瞬間に見とれることに、彼は気付いているだろうかと思案する。気付かれてもいい、と開き直るほどには不躾な視線を向けているし、人の視線や気配に敏い彼が気付いていないはずはないけれど、はっきりともし言葉にされてしまったら、わたしはきっと否定してしまうだろう。こういうところがあまりかわいくない女なのだろうか。考えても今更治るはずはない。
 手持無沙汰で握りしめた財布の表面を親指で撫でる。少ししてからキャップを被った彼が部屋から出てきて、わたしの財布を掴む。

「いらないだろう、」
「ありがとう」
「財布より、こういうことを気にしろ」
「わ、」
「アー……、思っていたより頭が小さいな」

 秀一さんの匂いがする、くらくらするほど、甘い、というのはたぶん錯覚。でも柔らかくて、すこしとんがった秀一さんの香水の匂いがする帽子をふわりと優しく頭に乗せられた。雄勁な指先が、乱れたわたしの前髪をゆっくりと整えて、少し大きい帽子のつばの隙間から見える彼の瞳は母親のように嫋やかで優しい。
 ずっと一緒にいるはずなのに、こんな小さなことが恐ろしくなるほど気恥ずかしく、顔を上げることができなかった。わたしの体温が上がっていることも、彼の指先が名残惜しさのないまま離れていくことも、いつの間にかわたしの財布はテーブルに置かれ、彼の指先がわたしの指先に触れていることも、全部、マジックのように一瞬だ。

「ファンタ、飲みたいんだろう」
「なんで分かったの」
「分かる。どれだけ一緒にいると思ってるんだ」
「すごい」
「ほら、行くぞ」

 引っ張られるように向かう玄関先ですぐ指先は離れる。二人でサンダルに足を滑り込ませて、ちょっとだけ重い彼の家のドアを押し開けると湿気と熱の混じった空気が一気に流れてくる。クーラーで循環させた冷たい空気を一瞬で上書きしてしまうような、べったりと纏わりつくような暑さ。

「暑いな」
「ファンタ日和」
「ビールじゃないのか?」

 玄関の鍵を閉めながら、秀一さんがいたずらっぽくにやりと微笑んで、またわたしの指に自分の指先を絡ませる。暑いよ、と小さく呟くけれど、彼は聞こえているのかいないのか、手を離すこともないまま歩きだす。秀一さんから借りた帽子が歩くたびにちょっとだけずれて、空いている手でそっと押さえた。
 エレベーターが到着するまでの少しの時間、じわじわと汗ばんだわたしの手のひらが恥ずかしくて手をさりげなくほどこうと動かしてみる。つばを下げ、俯いたままのわたしに聞こえるか聞こえないかという密やかさで、秀一さんの喉が鳴った。

「照れてるのか」
「……照れてない」
「似合ってるぞ、可愛い」

 覗き込むようにつばに触れ、持ち上げ、わざわざ上半身を傾けて目を合わせた秀一さんが笑う。耳許で銀色の十字架が揺れて、ちょっとだけ、キスされる、と思った自分が浮かれすぎていて恥ずかしく、けれど、単純な褒め言葉にも体温は正しく上がっていった。
 エントランスを抜け、夏の日差しに溶かされる前に、この人にわたしはどろどろに溶かされてしまう。
 ぽん、と開いたエレベーターに二人で乗り込んで、今からファンタを買いに行く。たったそれだけのありふれた日常のことで、ここまで蕩けてしまえるわたしはきっと幸せ者だ。
 どろどろにとろけ、緩みきったわたしの心を秀一さんは触って、慈しんでくれる。
 汗ばんだ手でそっと彼の手を握り返すと、また、秀一さんはかみさまみたいに全部を知り尽くしているような美しい微笑みを浮かべた。