たとえば。たとえば、もしも彼女が「あなたの声だけ聞こえなくなった」って泣きながら伝えたとき、彼がどんな反応をしてどうやって愛情を伝えるのか。それだけをずっと考えている。


***


「えっ、ウソでしょ?悪い冗談やめてよ」

 どうにか笑い飛ばそうと出した声は、情けないくらいに掠れていた。それをごまかすように強がってみても、彼女はほろほろと涙を流しながら困ったように首を傾げるだけ。ウソだって誰か言ってくれ。彼女がふいにこちらへ伸ばした手、親指の腹で頬を柔く撫でられて、そこでようやく、自分も泣いているんだと気がついた。

「悠仁くん、泣かないで」

 彼女の声は聞こえるのに、ちゃんと届くのに。こんなのって不公平で不平等だ。すき、すきだよ。声を発することはできなかった。唇だけを動かして、今度は俺から腕を伸ばしてからだを引き寄せる。どうしようもなく口の端から漏れ出る嗚咽と震えるからだにどうか気づかれませんように、と願いながら強くつよく抱きしめた。





 どうか夢であってくれ。あるいは、悪い冗談であって欲しい。心の底からそう思った。彼女の名前を呼んでも当然返事はかえってこない。彼女は先程からずっと、声も出さずに泣いていた。両目からぼたぼたとおびただしいほどの涙を流して、唇を噛んで、握り締めた自分の拳を震わせて泣いていた。呼吸がうまくできなくて心臓が痛い。

「俺さ、ずっと言いたかったんだよ。すっげぇ好きだから絶対、一生まもりたいって、隣に居たいって」

「恵くん、ごめん、ごめんなさい。わからないの」

 今更、本当に今更だ。今更何を言ったってもう手遅れで。いっそのことここから走って逃げ出してしまいたいとすら思った。相当ひどい顔をしていたのか、恵くん、と彼女が不安そうに顔を歪めて俺の名前を呼ぶ。もうこれからずっと、彼女が俺の言葉を掬って、言葉を返すことはないのだと思うと気が狂ってしまいそうになる。ああもう本当に、いい加減にしてくれ、どんな拷問だ。


▽▽


「もう棘くんの声、聞けない」

 いつもよりいっそう殊勝で弱気な様子で、彼女が今にも泣きそうな顔をするものだから、慌てて指先を動かして携帯端末の画面を見せた。

『絶対また聞けるようになるから』

 絶対、なんてそんなこと誰にもわからないのに。それを彼女もわかっているから、ほんの少し、困ったように眉を下げながらも笑った彼女の腕を掴んで、触れるだけのキスをした。

「ーー好き」

 ああ、言っても聞こえていないのか。
 どうか、どうかこれが悪い夢で、明日には覚めていますように。不安に揺らぐ気持ちをなんとか隠したくて、今度はすべてを掻き消すように夢中で唇を塞いだ。


▽▽▽


「バカ、アホ、マヌケ」

 憎まれ口を叩いてもいつもの反応がない。たったそれだけのことなに、とんでもない喪失感を覚えてしまう。唾液を飲むと焼ける様な喉が殊更に痛んだ。手の平は汗でじっとりと湿っている。

「五条さんなんて言ってるの?」
「好きだって言ってんだよ」

 どうせ、これも聞こえてはいないのだろうけれども。きっと今の僕は、体内に巣食う動揺をありありと自覚してしまったひどい顔をしている。彼女のからだを包み込むようにぎゅうぎゅうと抱きしめて、ぐっと唇を押しつけた。

「声が聞こえなくなったって、だから何なんだよ。絶対別れてやらないから」

 息を吸うと、渇いた肺がひりひりと痛む。けれど動揺はもう消えた。不思議そうに首を傾げる彼女の暢気な表情になんだかむしょうに腹が立って、悲しくなって、悔しくなって、切なくなって、そしてどうしようもなく愛しくなった。その一切合切を塞ぐように、またキスをする。