「キス、してもええ?」
「…………は?」
あんまり甘ったるい声色で急に言うものだから、手に持っていたグラスを危うく落としそうになった。
白膠木さんはテーブルに頬杖を突いてわたしをじいと見ている。あ、このひと完璧に酔ってる。柔らかく、けれどどこか強気な雰囲気を纏う彼は、わたしの驚いた様子を見てから、整った顔をクシャリと崩して大袈裟に笑う。
動揺しすぎやて、そう言ってもう何杯目かも分からないアルコールを口にしたけれど、そんなの、動揺するに決まっている。
「……え、今?ここ、どこか分かってます?」
「あ、後の方がええ?ここは打ち上げ会場やね」
あっけらかんとした表情で答えた。彼が言った通り、ここはドラマのクランクアップ後の打ち上げ会場として来ている居酒屋で、当然周りには大勢の人が居る。
「いつなら良いとかじゃなくて、」
「せやったら場所変える?」
「そういう問題でもないです」
打ち上げが始まってもうすぐ二時間。終盤にも関わらず周囲は盛り上がり賑わっていて、誰も隅で話すわたしたちの会話なんて聞いてはいない、おそらく。いや、と言うより、こんな会話、絶対に聞かれたくない。
「白膠木さんって、誰にでもそういうこと言うんですか?」
目を逸らして、できるだけ冷たく言い放とうと努めた。それでも微熱を孕んだ口吻になってしまい、心音がわずかに大きくなる。
グラスをテーブルに戻して、行き先が分からなくなった右手で髪の毛を耳にかけた。すると彼の手が真っ直ぐ耳に伸びてくる。耳朶をかすめた指先は、まるでたった今までのふたりの距離をすべて無視して急接近してくるようで、かっと顔が熱くなるのが分かった。もう少しで声が出てしまいそうになった、なんて、恥ずかしくて言えやしない。
「誰にでもとちゃうよ」
「女性にだけ?」
「杠ちゃんにだけ」
「お上手ですね」
膝の上に置いていた手が熱い、と思ったときには、彼のてのひらに包まれていた。テーブルの下の出来事とはいえ、誰かに気付かれてしまってもおかしくない。一瞬だけ身体が強張ったのが伝わっていないか少しハラハラした。
「ちゅーか、キスして欲しそうやなあって」
なんでこんなときだけ言葉に詰まるんだろうか。どうして、嘘でも勢いでもなんでもいいから笑い飛ばして、上手くすり抜けられないんだろうか。なんにも言えずにただ瞬きを繰り返すわたしを見て、彼はまたにっこりと笑った。
「ごめんなあ。嘘やで」
ほっとしたのも束の間。繋がれていた手の力が強くなる。白膠木さん、と気づいたら彼の名前を呼んでいた。けれど、思いが、唇がぎこちなく動いただけで声にはなっていなかったらしい。
「俺が、君とキスしたいだけ」
ダイジョーブ、誰も気付けへんよ、と彼は微笑むけれど、そんなはずがない。場所にしろ時間にしろ、わたしたちふたりの関係にしろ、そう、すべてにおいてこれはおかしい。
嫌だ、やめて、と思うのに、やっぱり言葉を吐き出すことができない。え、ちょっと、なんでこの人距離詰めてきてるの。少しずつ身体ごと後ろに下がって拒否しようとしたら、手を強く引かれてしまう。
「逃げんなて」
あ、やばい。そう思ったときには真剣な眼差しが、綺麗な顔立ちがもう目の前にあった。
なあ、目ぇ閉じて。そう言った白膠木さんの声に揺らぎはなかった。ああ、もうダメだ。キス、される。