ゆるやかな箱庭



 映画館で上映中に手を繋ぐとか、そんなのは少女漫画の世界でしか発生し得ないイベントだと思っていた。
 正直に白状してしまえば映画の内容なんて全然頭に入ってこなくて、ただただ手汗が出ていないかだとか、一郎くんを不快な気持ちにさせていないかだとかそういう不安ばかりがずっと胸中に渦巻いていた。戸惑いながらも彼のぬくもりから逃げ出したわたしの左手はまたすぐに捕まってしまって、指を絡めるように握り直されたそれに体温がさらにぐんと上がったのがわかる。とはいえさすがに上映中に彼の横顔を見て問いかけたりだとか抗議をするような勇気はなくて、わたしはこの状況をひたすら耐えるように黙って前を向いていた。エンドロールが流れ出した瞬間にいろんな意味でほっとしたのは内緒。一番後ろの列、隅っこの席に並んで座っていたわたしたちには、早々と立ち去ろうとする人やスマホを取り出そうとしているのかごそごそと身動ぎしだす人たちがよく見える。それからしばらくしてエンドロールも流れ終わって館内に明かりが戻る頃、わたしはようやくみずからの手をみずからの意思で動かすことができた。

「……恥ずかしい」
「何で?誰も見てねえじゃん」
「わたし、手びちゃびちゃだもん」
「あぁ、まあそれは」
「そこは否定してよ!」

 わたしがほんの少し強めに言うと、一郎くんはくしゃりと赤と緑の双眸を細めて愉快そうに笑った。うっ眩しい。今日も顔が良い。映画館の中だから普段よりいっそうに暗く闇に溶けるように見える濡羽色の髪、薄暗いオレンジ色の明かりがつくる陰影は彼の端正な顔立ちをよけいに際立たせているように見えた。

「なんでさっき一回手離したの」
「……なんとなく」
「もしかして、期待した?」
「え」

 どうにかごまかそうとしてみたけれど無駄なあがきで、つまるところ図星だった。このままキスされたらどうしよう、とか。ストーリーも終盤に差し掛かって、良い雰囲気になって、気のせいかもしれないけれどなんとなく、一郎くんが握っている手に力を込めるなぁ、とは思っていた。けれどこの場でそれを期待するのは違うと思ったし、がんばってどうにか、なんにも気付かないふりをしていたというのに。一郎くんはうろたえるわたしの反応を見て完全に面白がっている。

「キスして欲しかったんだ?」
「……ちがっ、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」

 まさかのオウム返し。ん?と、僅かに俯くわたしの顔を覗き込むように屈んで、首を傾げる一郎くん。どう控えめに考えても、からかわれている。

「……そ、そういうのは、家に、帰ってからで」

 だんだんと小さくなるわたしの声。当たり前だ、だってこんなことが言いたかったわけじゃない。あぁもういやだ、穴があったら入りたい。

「ふーん、家に帰ってからならいいんだ?」

 どうやら入った穴が墓穴だったらしい。もういっそうのこと土まで被って埋まってしまいたい。家に帰ってから、って、そんな発言、まるでわたしが欲しがっているみたいにしか聞こえなくて、もうどうしようもなく恥ずかしくて。う、いや、と否定しようにも事実は事実だから言葉に詰まるわたしの口を塞いだのは、他でもない一郎くんの唇。ちゅう、と短い音がして、途端錆びついたように動かなくなる思考回路。

「じゃあ、今はこれで我慢してやるよ」

 今更ながらに慌てて辺りを見回したけれど、幸いもうほとんど人は残っていなかったし、おそらく未だ後方の席に残っているわたしたちのことを見ていた人はいないだろう。そうだと、いいけれど。いや、もう深いことは考えまい、きっといない、そう思うことにした。

「俺たちも出るか」

 通路側に座っていた一郎くんが先に立ち上がって、エスコートするようにわたしに手を差し伸べる。わたしたぶん手汗でびちゃびちゃだよ、って苦く笑えば、それでもいいからって意地悪く笑って返して、ためらいもなく手を取ってくれるからどうしようもなく嬉しくなった。
 結局ほとんど頭に入ってこなかった映画の内容は帰りの道中で一郎くんに聞くとして、コンビニに寄ってアイスでも買って帰ろうかな。そんなんだと太るぞ、って、笑いながら言われちゃうかな。