case1:入間銃兎
冷蔵庫に入っている料理を見て、俺はぼんやりと
鈴鹿のことを思い出す。
最近は連絡も殆ど取れておらず、顔はおろか声すら何ヶ月も聞いていないような気がした。実際はそこまででもないのだけれど、それほど濃縮された日々の中で、記憶が薄れていくのが嫌だと思った。ご飯食べてる?なんか持って行こうか?という彼女のラインに甘えたのはいつだっただろう。今日行くね、という律儀な連絡の間も俺は仕事の内容を脳みそいっぱいに詰め込んでいた。冷蔵庫の中には、俺が以前好きだと言った料理がいくつかタッパーに詰められて入っていた。
会いたいだとか、頑張ってだとか、そういう事をひとつも言わないから、もしかしたら俺がいなくても
鈴鹿は生きていけるのかもしれないと思う。俺も、きっと
鈴鹿がいなくても生きていける、タッパーの中身を皿に移し替えて電子レンジで温めながら考えた。500ミリリットルのペットボトルを開けて直に口を付けてお茶を呷ると、リビングのやわらかな明かりの中で料理に箸をつけた。いつか聞いた、いつも聞いていた、銃兎さん、美味しい?という声が、ふと頭の中を過った。いっそ怖いほどに懐かしく感じる味付けは、母親のもののような郷愁ではなくて、ひたすらの渇望だ。
無くなっても死なない、食べられなくても泣くことは無い、ただ俺は黙々と口に運びながら、
鈴鹿について考える。無くなっても生きていけるからといって、大切なものじゃない訳ではないのだ。一瞬でなくなっているのか、ただ時間の感覚を忘れているのか、気づいたら皿は空っぽになっていて、俺は携帯を取りだした。
「美味かった、また食べたい」そう送って、深い息を吐く。彼女の作った味を、会えない日々も、会えていた日々も、これから紡ぐ日々もすべてを、俺は多分、生きる限り貪欲に求め続けるのだろう。
case2:伊弉冉一二三
他意の無い絶え間ない称賛の声みたいなものものに、たまに耐えられなくなっていく。自分がうまく世界の中でバランスを取れているのか分からなくなっている瞬間に、息を吸って、吐いて、次の瞬間には世界が戻っていく。俺は笑うし、周りも多分笑っている。仕事への影響がない程度にほんの少しだけ短く切った前髪はまだ短いままで、どうせなら、これからも短くっていい。
灯依が唐突に、しかも休日の昼間に、俺が映っているテレビ画面の写真を送ってきた。いつぞやのディビジョンバトルのものだろうか。特にラップをするわけでもないくせに、言葉ひとつひとつの重さだとかをいやに考えるやつなのだ。良かった、では軽率だし、面白かった、も上っ面ぽい、みたいに、どうしようもなく面倒くさい女。けれども、女性恐怖症を患った俺が唯一ホストモードではない素面の状態で対面できる相手でもある。画像は送られてきたばかりらしく、俺が瞬時に付けた既読の文字から画面が変わることはない。ただじっと、特に理由は無いけれどその画面を見つめていると、次いで飛んできたフキダシには「見たよ」と言うたった三文字。
だからこいつ彼氏できないんだよなあ、なんて本人が聞いていればデリカシーが無いと叱責されるようなことを考えて、俺は声を出して笑った。何笑ってるんだ一二三、という怪訝そうな独歩の声が後ろから聞こえて「なんでもない!」とひとつトーンを上げて答えた。
なんでもない、なんでもないよ。抑えようとしても尚こみ上げて来る笑いを噛み殺しながら俺は携帯の画面に指を滑らせる。「見たら分かる」と返すと、「凄いじゃん」と返ってきた。俺より
灯依の方がよっぽど凄いな、そう理由もなく思いながら俺は返信を考えたけれども、うまい返しが思いつかなくて結局画面を閉じた。
凄いじゃん。ぶっきらぼうに、困ったように言う
灯依の声を想像しながら、また今日も仕事に向かうのだ。
case3:四十物十四
習慣になっている新しいネイルの写真を
成那に送信して、自分がそれをすっかりと忘れた頃に返事があった。返事、と言うよりも着信という形で。けれども今日は生憎と、意外にも電話をする時間が終日一秒も取れなかったのだ。帰宅した深夜に、もう眠っているであろうと思いながらも「起きてる?」と探るような文章を送った。個性を主張する鮮やかな髪の色も、ぎらぎらとした爪の色も、いいじゃんと自分は、自分の事を思っている。自分じゃないたくさんの人が自分を勝手に否定したり肯定したりするくらいだから、自分くらいはいつだって自分を肯定してあげよう、と。
他の仕事だったりプライベートだったりの連絡を返したりしている間に再度
成那からの着信があり、彼女の名前を呼びながら出ると、はいはい、と、
成那はまるで母親のような言い回しで返事をした。それから自分がいつも行くサロンの話をすると、
成那は仕事上ねえ、といつも通りの愚痴を言うものだから思わず笑ってしまう。
携帯を持っていない空いている方の手を見つめて、自分は
成那の何も塗られていない爪を、細い骨に薄く肉の乗ったような手の形を思い出す。「わたしの代わりに十四がやるからいいの」、どういう会話の繋がりかわからないけれど、
成那はそう言った。自分は曖昧に頷いて、もしも全ての色を失ったってそんな自分を彼女が肯定してくれることを、唐突に信じたくなってしまう。
case4:山田一郎
お疲れ様です、という比較的快活な声がまだ自分の喉から出ていることに驚きながら鞄の中にケア用品が入っているかを瞬時に考えた。作業着から私服に着替えて、次に入っている仕事までの空き時間をどう活用するか考えながら事務所を出る。やっとてっぺんに近づいた日射しがはっきりとした強さになってきている、とキャップを被り直しながら考えて歩いていく。途中にも食事をしたせいか空腹は感じていなかったけれども、この分だと夜の仕事前にまた食べることになるだろう。
ふらふらと手荷物も持たずに歩いて、目についた自販機でなんとなくいつもは飲まないジュースのボタンを押した。缶がごとりと重みのある音を立てて落ちてきて、俺は短い爪でゆっくりとプルタブを上げて、一口それを飲む。外にいると常に気を張っているせいか両手を開けたいのは山々だったけれど、飲み終わるまでにまだ時間がかかりそうだった。
瞬間、携帯が震えて「この前のやつ飲んだ?」という
有理からのラインが新規通知の二つ下にあり、そこで漸く返信をしていないことに気付く。今来たばかりの友人からのそれは置いておいて、
有理からの文章を改めて読み直すと、俺が今手にしている缶ジュースの話をしているのだと分かった。だからボタンを押す気になったのだ、と腑に落ちて、潜在意識というか刷り込みというのは恐ろしいものだと改めて感じる。俺は缶ジュースを持った手の写真を取り、「めちゃくちゃ甘い」とだけ返す。甘くないから一郎も飲めるよ、美味しいよ、たまには糖分取りなね、電話で話した内容の記憶がするすると蘇った。
俺はビールなんかよりずっとずっと苦いものを飲む様に、立ち止まってちびりちびりと
有理曰く甘くない、けれどもひどく甘いジュースを飲んでいる。
case5:観音坂独歩
多分、ずっと気を張っていたのだ。と、玄関を開けた先に神様のように現れた
灯依を見て、俺は漠然とそう感じた。
ラインまだ見てなかったの、と不思議そうに尋ねられて俺が携帯を開くと、言われた通り確かに、
灯依からの連絡が来ていた。仕事が俺より早く終わったので先に独歩の家に上がっています、という、いつまで経っても他人行儀で律儀な文面。俺が玄関で靴を履いたまま画面をぼんやりと眺めてその文字ばかりを何度も読み返していると、俺の目の前でルームシューズを履いている
灯依が呆れた声で俺の意識を引き上げる。平生鈍くさいだの気が抜けているだと言われるけれど、プライベートな時間で少しくらい気が抜けてしまっていたって許してほしい。
今日会社で言われた沢山の嫌味だったり皮肉だったり叱責だったりを思い出しながら靴を脱いで、
灯依が気に入って買ってきたというハリネズミを模したスリッパを履いた。「独歩?」名前を呼ばれて
灯依の方に顔を向けると、鈍くさいだとかそういうマイナスなことを決して俺に言わない篤実な彼女の瞳には、間の抜けた顔の俺が映っている。なにも考えずとも口をついて出るただいまとおかえりの日常的な会話を行った後、棒立ちになっている俺を放ったまま、珈琲を二人分淹れ出す今の彼女の瞳の中に俺はいない。
ああ、会いたかったのか。今、自分のなかにあるコップに満たされた透明の水みたいに今にも溢れそうな感情の名前をやっとのことで思い出して、俺は納得するように「そうか」と言葉を零した。そんな小さな呟きは聞こえていなかったのだろう、
灯依からの返事は聞こえてこなくて、ただキッチンにいるその背中を噛みしめるようにじっと見つめる。
この感情に、きちんと名前をつけることのできたこの日を忘れてしまわないように。
case6:天国獄
じんわりと水中から引き上げられるように目が覚めて、奥の部屋で眠っているであろう
成那を起こさないようそっとクローゼットを開けいつもの組み合わせの服を手に取った。最近漸くルーティンと化してきたスキンケアの作業を終えて、僅かに逡巡する。出なければいけないタイムリミットまではもう少し余裕があって、いつも通りの服を着るべきか考えるには些か中途半端な時間。もう少しぎりぎりだったらまだ言い訳もあっただろうに、と正しい体内時計を有する自分の身体を微かに憎らしく思いながら、新しく買った方の服に袖を通した。俺はキッチンの周囲を意味もなくぐるぐると回って、携帯が鳴るのを待っていた。
そろそろだろうか、珈琲が飲みたくなってきたな、と考えていると、いつの間にか起きていた
成那が大きく伸びをして俺を見ていた。「もう仕事だから」と言うと、
成那は目を瞬かせて少し長めの沈黙を作った後に「今日もかっこいいじゃん」とひどくやわらかく笑った。後頭部に寝癖をつけて、寝惚け眼で、俺のぶかぶかの部屋着を着た彼女の作られていない声が部屋の中をくるくると回っている。「今日もかっこいいじゃん」、瞬時に記憶へと刻まれた
成那の声がして、携帯が震えてることに気づいた俺は鞄を持って玄関に向かい靴を履く。着信は空却からだった。
俺は今日もかっこいいらしい。いってきます、いってらっしゃい、の言葉を交わして、木製のシューホーンで靴の踵を潰さないように履き直すと、ドアノブを握りながら俺は小さな声で「よし」と呟いた。
case7:碧棺左馬刻
車の後部座席でうつらうつらと舟を漕ぎながら、これから自分が日々行うべきことを考えていた。
"仕事"のスケジュールはかなり厳しく、余白をどう組み立てるべきなのか、やっと慣れてきたのかもしれない。昔はこういう安定した多忙さを渇望していたし、今現在その環境に不満は無かった。あるとすればそれはこの世間やらくだらない法律云々へのそれであり、けれどそれを口にしたところで"壁"には門前払いの如くにべもなく撥ね退けられるのは目に見えている。然程改正を望めるものでもなかった。窓ガラスに映る俺の顔は無表情で無機質な人形のようで、ふいと視線を逸らし、そこそこ足に馴染んだドクターマーチンに目をやって足を組み直す。携帯の画面を何度も、恐らくは五分に一度くらいの頻度で触ってみても、求めている連絡はまだ来る様子がない。携帯が膝の上に転がって、自分が一瞬眠っていたことに気が付いた。着信を知らせる通知欄には先程まで望んでいた
鈴鹿の名前が浮かんでいて、夢かと思いつつも俺はすぐに返事を送る。
今、一番欲しいものは何ですか。中王区から依頼されたくだらねえ娯楽雑誌のインタビューでついこの間訊かれた質問に、俺は何と答えたのか、思い出すことが出来ない。仕事は、まあ納得しているかどうかは別として充実している、けれどもっと貪欲でありたいとも思う。そこそこに信頼できる仲間もいて、家庭に恵まれてこそいないかもしれないけれども大事な妹もいる。僅かに切った髪の毛のせいか少しだけ風通しの良くなった首筋が僅かにすうすうとした。
鈴鹿から「じゃあその日で」という文面が送られてきて、俺はただ一言「おう」とだけを返す。
ひとつ欲しいものを願うとするならば、俺は多分、何も願わない。信じもしない神に何かを願うくらいならば自分の力で手に入れたいと思う。ただ、そう考える自分の情けない程の律儀さを失いたくはない。自分が守れるものがこれっぽっちもないとは思いたくはないけれども、欲しいものよりも失いたくないものばかりが増えていく日々である。